電車の運行が取りやめとなった場合、どのようにして家まで帰ろうか。
大和八木での業務を終え、奈良の地に降り注ぐ激しい雨を窓外に見ながら考えた。
とにかく最短コースで西へ西へと進もう。
近鉄電車、地下鉄千日前線、JR東西線と辿ってどこかで電車が止まればそこからはタクシーを呼ぶしかない。
そう心を決めたとき、電話が鳴った。
父からだった。
何かあったのだろうか。
不安を覚えつつ、上本町で乗り換える際に折り返した。
父は上機嫌で、その声は喜びで涙ぐんでいるようにも感じられた。
この日、二男が突如帰阪し、従兄を伴い寿司折りとビールを携え昼に父の家を訪れたとのことだった。
このたび従兄の就職先がいいところに決まった。
そのお祝いを兼ね、また週末に大阪星光66期の友人と会う必要もあったから二男は急遽大阪に帰ってきた。
日本列島が警報級の大雨に見舞われた日、父はひとり家に閉じこもっていた。
そこに立派な体躯の孫二人が前触れもなく現れたのであるから、こんな嬉しいことはない。
しかも手に寿司折りと缶ビールを携えているのであるから尚更のことである。
喜びのあまり父がわたしに電話してきたのも無理はないだろう。
父はわたしに言った。
「孫と一緒にビールが飲めてほんま嬉しいわ、家に帰ったら息子においしいものを食べさせてやってくれ」
わたしが無事家にたどり着いてまもなく、二男と従兄がうちの家へとやってきた。
就職についてその従兄から聞く話が実に面白い。
人事担当に一位合格と言われたそうであるから、かつてのちびっ子もたいした男になったものである。
で、ふと思うのだった。
母が生きていれば。
一緒に缶ビールを飲んでどれだけ喜んだことだろう。
孫たちはみないいところに進学しいいところに就職し、元気で仲良く交流している。
それもこれもみな母のおかげだとわたしは思う。
世には他人以上に疎遠な関係となった兄弟姉妹がいて、その子どもたちなど更に輪をかけ赤の他人と化しているといったケースも珍しくない。
そう思えば、彼らの交流が実に貴重で頼もしいものに感じられる。
今月終わりには東京にて皆で集まるとのことで、秋には皆で旅行しようと話し合っているという。
各自がそれぞれの進む道で情報の網目を広げ、それを皆で共有してゆく。
母とよく一緒にお風呂に行ってくれた姪っ子は大学で選ばれて入浴ならぬニューヨークに行くというし、秋に長男はバルセロナに出張するとのことである。
この関係の中にもたらされるそういったひとつひとつの情報がさらに関係を豊かなものへと発展させていくのだろう。
かつて家内を当てこすった人物は、小さな彼ら彼女らが集まって遊ぶ光景をたまたま見かけて、難民の子みたいやなと嘲った。
場所は大阪城公園で、皆を率いていたのはわたしの母だった。
質素な格好だからダサく見えたのかもしれないが、やはり滅多なことは言わない方がいいだろう。
うちの甥っ子や姪っ子と会えば、降って掛かったその心ない言葉をわたしはついつい思い出してしまう。
夕刻、家内がジムから戻ったタイミングでタクシーを呼んだ。
行き先は武庫之荘の焼肉じゅん亭で、息子が帰ってきたらここで肉を食べさせようと家内と話し合っていた店だった。
四人でテーブルを囲んでビールで乾杯し、上塩タンを皮切りに分厚いステーキやら焼肉定番のロースやら少し趣向を変えて焼きしゃぶやらも楽しんで、もちろんホルモンも外すことなく、最後は揃って盛岡冷麺で締めた。
その間、まだ仕事中である長男に向け、あれこれビデオメッセージを送った。
長男からすれば従弟の就職内定は喜ぶべき話に決まっていて、二男も含め男三人で山に登ったりサッカーしたり風呂に行ったり旅行したりと三人兄弟のように遊んできたから、従弟が上京した際、長男もなんとか時間を作って夕飯を奢るくらいのことはすることだろう。
帰りも店までタクシーに来てもらった。
大雨の夜、座席に乗り込む一瞬を除きわたしたち四人は雨にかすりもしなかった。