野田阪神から足が遠のき二年以上が経過した。
以前はそこに事務所があったから、野田阪神と言えば拠点も拠点、わたしたちのホームグラウンドとも言え、その期間は、長男が6年生になる春に始まり、二男が大学に入学する春までの延べ9年に及んだ。
その当時、わたしは早朝から事務所に入り業務に明け暮れ、夕刻には事務所近くのジムに通って風呂に入って土日も過ごした。
家内は足繁く手伝いにやってきた。
家と事務所の往復が暮らしの基本線となって、幸い事務所近くの商店街で良い食材が手に入ったから、家内の料理のレベルが驀進し、わたしたちはその恩恵に与ることになった。
息子たちは自習室として事務所を有効活用した。
中学受験、中高の定期考査、大学受験。
いずれの時期にも事務所が舞台として登場した。
勉強の合間、彼らは周辺の店で食べたり、買い食いしたりし、勉強に倦めば映画などみて過ごし、わたしと一緒にサウナに入って帰ることもしばしばだった。
そんな話を詳述すればキリがないのだが、要するに野田阪神はわたしたちの歴史の主要な舞台であった、ということである。
ところが、そんな深い愛着を伴う場所も、去る者は日日に疎しというとおり、谷六に事務所を移した後、立ち寄ることがなくなって、もともとがそうであったように、わたしたちのなか、疎遠な地域となりつつあった。
だからこの金曜の夜に再訪したのは訳あってのことだった。
「さんま半立ち食堂」という人気店が昨年野田阪神にオープンしたとかで、予約困難もなんのその、家内が二席を確保したのだった。
わたしは仕事を終え、マッサージ屋で全身を揉みほぐしてもらってからかつてのように野田阪神の駅で電車を降り、かつてのように駅近の本屋をのぞいてから商店街を歩いた。
全般的なその寂れ具合に驚いたのであったが、贔屓にしていたクリーニング屋はそのままで、ジムの下のコンビニには昔ながらのおばちゃん店員が健在で、しばし懐かしさに浸った。
もちろん、かつてのように神社にも足を運んだ。
まもなく夏祭り。
本番に向け、鐘や太鼓が鳴り響き、青少年らは練習に余念がなかった。
そんな光景を微笑ましくも眺めていると、長男からの電話が鳴った。
その昔、彼が進学することになる慶応法の合格発表を見たのはまさにこの場所、この鳥居の下であった。
仕事がめちゃおもしろい。
ほんといい会社に入った。
会社選びに間違いはなかった。
息子は頼もしくもそう言った。
当初、ハードでしんどいと語っていたが、もう慣れたようだった。
来週、外国からのお客さんを相手にプレゼンをする。
その資料集めで、今日は横浜を訪れた、と言って写真を送ってくれた。
見ると、男前、いい表情。
そうかそうか。
プレゼンの後は接待でその外国人ビジネスパートナーたちと会食する予定になっていて楽しみで仕方がない。
じゃね、と電話が切れて、わたしは店へと向かった。
まもなく家内が現れた。
野田で合流するのも、わたしたちの昔の定番復活といった趣きでなかなかいい。
噂に違わず、料理はそれはもう見事なものだった。
旬のオールスター食材が競演する全9品のすべてが素晴らしかった。
年末、予約の空いてる日があったので息子たちとその従兄弟、わたしからすれば甥っ子をまじえ計5人分の席を予約した。
6人で満杯だから貸切になるとのことだった。
三連休前夜、女房と二人。
昔しばしばそうしたように海老江駅まで一緒に歩いて帰宅の途についた。