会って話せば、得られる情報の質が高まり、その量も倍増しとなる。
電話やメールやズームだと何かが足りず、どうしても薄味となって立体感を伴わない。
やはり面と向かってこそのコミュニケーションと言えるのだろう。
コロナ禍が少し落ち着き、先日、わしお耳鼻咽喉科の鷲尾院長と二人で待ち合わせた。
一緒に食事するのは久々のことだった。
コロナの渦中、院長はじめスタッフ全員がまさに戦時下に置かれたようなものであったから、息をつく暇もないというのが実際のところだっただろうと思う。
深く話し込むのは久方ぶりのことであった。
だから、そのビフォー・アフターの変化がわたしにはかなり明瞭に感じられた。
地元の方々とともにその戦時をくぐり抜け、院長が行き着いた境地を言葉にするなら、仕事愛と地元愛といった言葉に代表させることができるのではないだろうか。
清々しくも爽やかに、この地で生涯を医療者として生き、地域のため、また院長を信頼しついてきてくれるスタッフのため、持てる力のMAXを捧げる、そう腹が据わって一点の曇りもなし。
わたしにはそう見て取れた。
わたしと院長とでは、立場が天と地ほどにも異なるが、職業者であることには変わりがない。
だから、MAXを捧げるような覚悟のほどが隣席から漂ってくれば触発されるのは当然で、わたしの中にもガッツのようなものが溢れ出て押し留めようがなかった。
やはりじかに会ってその述懐をこの耳にしたからこそであり、電話やメールやズームではこうしたことは起こり得ない。
そして、その後。
今度は鷲尾先生の甲陽の先輩にあたる方ともさしで食事する機会を得た。
甲陽であるからこの院長も鷲尾先生と同様に頭がキレて実に明晰であるのだが、この院長がおっしゃるには、鷲尾先生の頭の良さは図抜けているとのことであった。
甲陽であるからとても賢く、医者であるからやはり賢く、そんななかで更に頭ひとつ抜け出る頭となれば、凡人のわたしが思い描ける域の向こう側であり、だからわたしが想像してもはじまらないということになる。
そんな話を聞きながら、やはりその先生も職業者として最善を尽くすため、いろいろ工夫を施し、ストイックに食事や体調に気を配り、更にレベルアップするため徹底的にカラダを鍛え上げている。
それもこれも、仕事においてやはりMAXを捧げるため。
立て続けにそんな高いレベルの意識に触れて、改めてわたしは思った。
一流の職業者は、すべてアスリートみたいになっていく。
鷲尾先生も普段はお酒を飲まず、この先生も日頃はお酒を控えている。
わたしも見習わなければと素直に思った。
生活管理も含め仕事への心得をいろいろと教わって、食事をはしごでご馳走になって、握手して別れたのであったが、帰りの車中、つくづくと感じた。
なんてわたしは人に恵まれ、縁に恵まれているのだろう。
車窓の向こうを流れ過ぎる景色に目をやりながら、自分を取り巻く人々の顔を思い浮かべ、すっかり付き合う人の顔ぶれが様変わりしたのだと感慨が深まった。
こんなちっぽけなわたしであるから普通に考えれば、そういった方々と一緒に並んで歩いたり、一緒に食事したりといったことなどあり得ない。
しかしちっぽけであっても真面目に一生懸命生きていれば、こんな感じで世界は変わっていくのかもしれない。
なにか世界の真実の一端を、ふと目の当たりにしたように思えた。