金曜の夜、現地で女房と待ち合わせた。
それぞれ最寄り駅からタクシーに乗り、わたしが鮨たけ屋に到着したとき、家内はちょうどカウンター席に腰掛けようとするところだった。
隣に座り、ほっと気持ちが安らいだ。
はじめてたけ屋を訪れたのは今年の7月のことだった。
予約が困難ななか家内がうまく席を確保してくれて、あまりに美味しく夫婦して初回でここのお寿司に惚れ込んだ。
それで席の空いている日を聞き出して、途切れ途切れながらもほぼ毎月通えることになった。
この日が二回目であったが出だしからやはり素晴らしく、「おいしい」との声が双方から漏れ出て随所でハモった。
忙しい一週間だった。
障害物競走を走り抜いたとの感があったから、美味しい寿司で癒えるこのゴール感がたまらない。
女房は女房でエステを受けた帰りだった。
至福悦楽の余韻のなかに至極の鮨が混ざり合わさり、それはもう美味が千倍染み渡るといったようなものであっただろう。
すべて美味しいだけでなく、たとえば、くじらのさえずりを使ったお吸い物など意外性もあって食事が実に楽しい。
夫婦で肩寄せ美味しく楽しく寿司を食べ、ささやかではあるもののわたしたちは今とても幸福なのだとの実感が湧き上がった。
ネタがとても素晴らしい。
なにか特別なルートでもあるのですか。
そう聞くと、長崎なまりの抜けない素朴な口調で、大将は言った。
雨の日も風の日も市場が公式には休みの日でも、毎朝、市場に通い続けた、その結果だと思います。
市場の人と直に顔を合わせ続けるから声を掛けられるようになり、だんだん仲良くなって、いいネタを優先的に回してもらえるようになりました。
でも、毎日早朝から市場に出かけ店で仕込みして夜は寿司を握って、ここで暮らしているようなものなので、家族には寂しい思いをさせているかもしれません。
寿司職人というよりはスタイリッシュなパティシエといった趣きの大将がそう言って笑った。
なるほど。
凡百の寿司とはひと味もふた味も違う訳である。
飄々とした雰囲気に見え、やはり仕事のベースに執念のようなものが潜んでいるからこそ、こんなおいしい寿司が生み出されるのだった。
寿司を頬張りながら「われ以外みなわが師」との言葉をわたしは噛みしめるような思いとなった。
勘定を済ませ女房と通りへと出て少し歩いた。
夜風が涼しく、改めて9月になったのだと気がついた。
交差点で家内を待たせ、わたしは駅まで小走りで駆けた。
そこでタクシーを拾って途中で待つ家内をピックアップし、家路に就いた。
なんて平和で平穏な金曜日なのだろう。
一週間で累積したザワザワ感がものの見事に収束し、心は丸みある静謐に包まれた。
わたしは目を閉じるようにしてその心地よさにひたった。