業務を終え往来に出るとあたりはすっかり暗くなっていた。
日中は幾分かやわらいでいた真冬並みの寒さが夜になってぶり返していた。
家内もまだ出先にいるとのことだったので、ちょうどいい。
ひとり食事でもして温まってから帰ることにした。
誰もが連れと一緒に酒を酌み交わし合う中、ひとりカウンターで考えた。
ぽつねんともの思いにふけるようなとき、例えば電車に揺られているときなどしょっちゅう友だちの顔が浮かんで連絡しようと思い立つ。
が、日頃のタスクに取り組むうち連絡しようとの思いは後景へと退き、いつも決まって先送りとなっていく。
しかし一体なぜいつも先送りとなるのだろう。
おそらく誰もが忙しい。
そんな忙しいおり、誘いの連絡がきても却って迷惑になるのではないか。
自身の胸のうちを探って、そんな思いが重しとなっているのだと分かった。
昨今、なにかと言えばコスパやタイパといった言葉が最重要事項として語られる。
いまや現代人の価値観のメインストリームを占める指標と言ってもいいだろう。
で、翻って自身をみたとき、そこにパフォーマンスとしての有用さなど無きに等しい。
つまり、わたし自身の価値については清々しいほどにコスパゼロ&タイパゼロのダブルゼロとみて間違いないということである。
わたしと遊んで得られるものなどなにもないのであるから、お金を使うだけ、あるいは時間を使うだけ無駄ということになる。
そうと分かるから、気が引ける。
時間やお金の無駄遣いに誰かを巻き込んで迷惑を掛けるくらいなら、ひとり孤独に揺蕩うのがせめてものゼロの矜持と言えるのではないか。
コスパとタイパという現代の絶対的な教義に駆逐され、わたしは人間関係の希薄な辺境へと自らを追いやっていたのだった。
しかしそれでも無ではないと麦焼酎のお湯割りを飲みながらわたしは改めて家族のありがたさを思った。
とても小さな家族であるがそこに限定すれば理屈抜きに、つまりコスパもタイパも問われることなく、家族としての関係が当たり前のように存在している。
やはり持つべきものは家族。
そうホッとしたところで、提出したばかりの答案のミスに気付いたみたいにハッとした。
いやいや家族にとってわたしはゼロではない。
雀の涙とは言え僅かながらも稼ぎがある。
家族についてもそれがあってこその関係と言えるのかもしれなかった。
ああ、こんなところにまで。
現代のスーパー教義は人としての最後の砦にまで押し寄せているのだった。