先日の朝日新聞に印象深い記事があった。
聴覚と触覚は同じ遺伝子を介して感覚機能を発揮している。
また、聴覚と触覚で得られた情報はともに脳の側頭葉で処理されている。
そこから聴覚と触覚は密接に結びついていると考えられる。
そんな慶応大学の仲谷准教授の話にたいへん納得がいった。
実際、音で得られる親密さはまるで包み込まれるような安心感をもたらすものであるし、逆に、怒声などを浴びせられれば、その衝撃は殴られるのと全く変わりがない。
「着信があっても怖くて電話に出られない」
そんな話を思い出しながら、わたしは手酌でコップにビールを注いだ。
12月にこなそうと思っていた大きな仕事が3つあった。
そのうちの2つ目がこの金曜日に片付いて、帰りも遅くなったのでわたしは酒場へと寄り道していた。
神戸でエステを受けた家内も帰りに明石焼きを食べたとのことだったから、ひとりで夕飯を済ませるべき状況が重なってもいた。
場末の居酒屋はそこら下町の客らで賑わって、生活の匂いに溢れていた。
わいわいがやがやとしたノイズも含め発せられる音のすべてがなんとも懐かしく響いて耳に心地良い。
そんな雰囲気のなかわたしはひとり沈思して、自分や家族の現在地点について思いを巡らせた。
まあなんとか仕事も順調で、なにより伴侶である女房がいたって元気。
そしてわたしと家内にとってかけがえのない存在である息子たちも彼らの持ち場にて旺盛に頑張って、将来を憂える要素が何もない。
数多くの出会いがあり実になる学びが多々あって数年後には海外へと赴任する。
そんな充実の日々を長男は送り、続く二男は二男で数々の選択肢に恵まれて彼もまたいつかは海外へと飛び立つことになるだろう。
わたしたちは護られている。
酔いが回ったからか、そんな感覚に実感が伴った。
で、ふと気がついた。
ひとりでお酒を飲みながら、いつしかわたしはおかんと会話するみたいに物思いにふけっていた。
酒場にて意識の波間を漂うようにひとりで過ごし、やがておかんという岸辺にわたしはたどり着くべくしてたどり着いたのだった。
おかんの声がよみがえる。
カラダだけ元気やったらそれでええで。
その声はありありと耳の奥に残っていた。
つまり、いまはもう会えなくても、おかんはそこに確かに存在しているのだった。
わたしはひとり耳を澄ませておかんと会話し、酒場にてふんわりと包み込まれるような時間にひととき憩った。