各々3万歩を刻んだ土日の東京行脚を終え、月火水と休むことなく夫婦でジムへと通いスムーズに日常を取り戻したと思ったら、はや年末。
年の瀬はいよいよカウントダウンの段階へと差し掛かった。
年末から年始にかけて息子たちと過ごすことになるから、あれも食べさせたい、これも食べさせたいと家内の頭をとめどなく料理が巡って、そうなるとじっとしていられる家内ではなかった。
水曜のトレーニングを終え家内が調達した食材は凄まじい分量に達した。
わたしは運搬業者さながらクルマに積んである食料を何往復もしてキッチンへと運び入れ、同時に家内は冷蔵庫の棚卸しを行った。
厳選された食材だけが息子のために取り分けられ、さほどでもないものはわたしへとあてがわれることになった。
それでもこの日、焼きに焼かれた牛モモステーキは、わたしからすればとろけるようなおいしさで、まちがいなく豪勢な料理の部類に属した。
しかしながら家内からすれば在庫一掃処分とも言える品であり、その証拠、それら大皿を埋め尽くすよい焼き目の肉たちはチラとも写真に撮られることがなかった。
つまり家内からすれば牛モモは記録するにも値しない代物だったのである。
それでわたしは考えた。
多少は骨が折れても、日記であれば写真が撮られなくてもそのステーキについてありありと詳述できる。
だから写真がなくてもわたしの場合はそれで不便は生じない。
しかし、いまやコミュニケーションの主体となったインスタにおいては写真を欠けば、存在しないも同然であるから「なかった」ことにするほかない。
ということは、逆にそれらしい写真さえあれば「あった」ことにできる訳である。
ああだからなるほどインスタにおいては、小ウソがそこのけそこのけとお手軽に闊歩することになるのだろう。
先日は、ほら見てこれ見てと「我が家のクリスマス」でインスタ界隈は大賑わいだった。
微笑ましくも美しい、人も羨むような世界が数多く見られ、それはそれで実に興味深かったのであるが、なかには、ちょっと気の毒なと感じるようなものもあった。
どう見てもおかしい。
ツギハギだらけの寄せ集めでそれらしく見せようとするが、肝心の全体像がまったく見えないから、結局は「ない」ものを「あった」としようとする作為なのだとの姑息な尻尾が見えてしまう。
しかもどうやらプレゼントは箱だけで中身がない。
それも分かるから、結果、伝わるのは「我が家の空虚」とでもいった痛々しいものであった。
自分が見せようと意図したとおりに、人は見てくれない。
虚偽が混ざれば混ざるほど見透かされるが、本人ばかりは気づかない。
そんな埋めようもないギャップが透かし絵のように浮かび上がってくるからインスタは時に寒々しくも物悲しい視覚効果を伴っているとも言えるだろう。