貝の蓋が固く閉じているようなものなのだろう。
普段わたしはそのように内にこもって、だから往来で誰かから声を掛けられるといったことがない。
繁華街の客引きでさえ手をこまねく。
内で思念がむんむん蒸して、そんな様子が如実に伝わるのだと思う。
そんなやからに声は掛け辛い。
一方、家内はその正反対の性質を有している。
風通しよくなんでも受け入れ、だからあちこちで自然に声を掛けられる。
先日、仕事があって家内は奈良へと向かった。
その際、大阪駅のホームで法隆寺に行きたいというオーストラリア人のおばさんに声を掛けられた。
結果、快速電車で隣り合い法隆寺までの道中、楽しく会話を交わした。
おばさん宅にホームステイしていた日本人青年がこのほどJALに就職し、そのお祝いで東京へと駆けつけ、その足で京都を観光しこれから奈良を訪れるとのことだった。
おばさんは言った。
日本は素晴らしいが、日本人にはスマイルが足りない。
それに対し家内は言った。
それは英語ができないから。
わたしは貝のように閉じて業務先へと向かいながら、家内から聞いたそんな話を思い出していた。
英語が話せることで余裕ができ、多少は笑みが生まれる。
また言語の性質上、英語を話せば多少は笑い顔になる。
そういうことはあり得るだろう。
が、あくまで多少であって、蛹が蝶へと変貌するようにスマイルレスな日本人がスマイルフルになるなど想像し難い。
英語が話せたところで、閉じた貝は手強くそう簡単には開かない。
そう思ってわたしは心の奥底でにやっと笑うが、その笑顔が外へとこぼれだすことはない。
そんなわたしが日本人としての標準形で、だから家内については日本人離れしているというしかないだろう。
奈良を訪れた次の日のこと。
仕事で大津へと向かった家内は、京都へと向かうドイツ人の女子と快速で隣り合い日本の桜の美しさについて語り、昨日は仕事で和歌山へと向かう道中、通路を挟んで隣席に座るフランス人夫婦と熊野古道について語り合った。
とてもわたしには真似できない。
とはいえ、遠からず赴く海外において、貝のように閉じてばかりだとその方が気詰まりだろう。
家内の隣でわたしはこの蓋をこじ開けて、内なる笑顔を外へと引っ張り出さねばならない。
別人になることもまた旅の醍醐味。
そう腹を括って楽しむしかない、と今から心の準備をし始めている。