朝、駅に向かって歩いていると、流れる曲が『Better Now』になった。
昨夏、鳴門への道中、クルマの中でヘビロテした曲であったから、その旋律のうねりの各所に記憶が埋め込まれていた。
見慣れた駅前の景色に鳴門の海が姿を現し、出勤途上にありながらわたしは家族と過ごした休暇の時間に引き戻された。
曲をリピート再生にして、海に居続けたままわたしは電車に乗って空いた席へと歩を進めた。
と、後ろから誰かがわたしを押しのけて、わたしが目指した座席に割り込んだ。
見ると、家内だった。
並んで座って、ヨガへ行くという家内と南森町で別れた。
そして、業務を終えて夕刻。
わたしは『Better Now』を聴きながら電車に乗って近鉄奈良駅に降り立った。
自転車にまたがる家内が待っていた。
わたしも自転車を借り、家内の後に続いた。
6月なのに秋みたいに空気が清涼で、風を切って走るだけで幸福感が募って頬が緩んだ。
途中、修学旅行で奈良を訪れるバスと何台もすれ違った。
数年前に途切れた日常がようやく回復しつつあるのだった。
かぐわしい奈良の香りを胸いっぱい吸い込んで、まもなく予約の時間が迫った。
自転車を奈良ホテル前のポートで返却し、わたしたちは枸杞(クコ)へと向かった。
夕飯の予約が取れたのは奇跡のような話だった。
家内は張り切り、店主の奥さんに渡すおみやげまで手に携えていた。
店は市街地を離れた場所にあり、店内は古い家屋が醸す奈良の情緒に溢れていた。
まさに異空間であった。
そこで自然由来の料理を堪能し、夫婦でお酒を酌み交わした。
お腹も膨れてほろ酔い。
駅までタクシーを勧められたが断って、わたしたちは歩いてJR奈良駅を目指した。
古い都の路地の風情を味わいながらのんびり歩き、朝と同様、電車に乗って並んで座って帰途についた。
奈良でひととき過ごしたにすぎなかったが、まるで夢のような時間であった。
おそらくいつか『Better Now』を耳にしたとき、この夢の時間がそっくりそのまま蘇ることになるだろう。