朝8時、約束どおりお客さんから電話がかかってきた。
業務について打ち合わせしていると、階下から声が聞こえた。
ご飯できたよ。
家内がわたしを呼んでいるのだった。
わたしは電話しながら渡り廊下に出て、階下にいる家内にいま取り込み中であることを指し示した。
が、それでも家内は何度もわたしを呼ぶのだった。
左からお客さんの声、右から家内の声。
その板挟みで、思考がまとまらない。
わたしは階下へと降りた。
邪魔せぬよう家内に合図を送るが、やはり家内はあきらめない。
どうやらラーメンが茹で上がったばかりで、それがのびてしまうと心配しているのだった。
だから早く電話を切ってというのだが、仕事相手にラーメンがのびるので掛け直しますとはとても言えない。
仕事が大事。
そう理解しているはずの家内であるが、家内の気持ちも分からないではない。
和歌山の井出商店でわざわざ冷蔵バックを買って重いのに持ち帰ったラーメンである。
それがのびてしまうなど看過できるはずもなかった。
なんとか早く電話を切り上げ、食卓につき家内と向かい合ってラーメンをすすった。
めちゃうまい。
ありがとう。
感謝の気持ちを伝えた。
家内はほっと安堵し笑った。
ああ、なるほど。
仕事より、もっと大事なものがある。
大事なものの範疇のなか人それぞれそこには順位があるのだった。
わたしは自身についても考えた。
自分が大事にしているものを漠然とではなく正確に心得ておくことが事を誤らないためにも必須だろう。
そう言えばこのところ事ある毎に見積もり、見積もりと言ってくる客がいた。
定価の決まったものなら、はいどうぞと手軽に対応できるが、複雑な案件の場合は見積もること自体が難儀な話で、緻密に作ろうとすればそれだけで大仕事になってしまう。
一度や二度ならまだしもそれが再三続いたので、「他所に頼んでください」とわたしは関わること自体を辞退した。
それで失うものなど何もなく、元の平穏が回復するのであるから差し引きプラス。
つまりわたしにとっては、仕事という大括りな価値のなか、お金以上に信頼関係の方が大事だということである。
新たな業務を取り扱う場合、うちのお客さんなら言うだろう。
言い値でいいよ。
お客さんはそれでお代が適正になると知っているし、わたしもその適正を弁えている。
それでますます信頼関係が強固になっていき、お金は後からついてくる。
このように大事さについての大雑把な括りのなか、その加減に微妙な凹凸があって、心が何か奇異を感知したのだとすれば、その凹凸を取り違えたことが原因とみてまず間違いない。
女房と食べた朝のラーメンの思い出は、正しい凹凸をくっきりと反映し胸に永遠に残ることだろう。