KORANIKATARU

子らに語る時々日記

旅行しよう

週末のジョギングの際に違和感生じたものの、すぐ治ると思っていたところ、右足甲の痛みは増すばかり。
おそらく捻挫だろうが、放置し以降の仕事に支障生じるのは回避せねばならないので、月曜午前と言う仕事の超ゴールデンタイムに事務所直近のむらた整形外科クリニックを訪れる。

一歩入って驚いた。まるで野戦病院さながらの混み具合である。
来院者は引きも切らず次第に外にまで溢れかえる。
足が痛いが座れない。
周囲は、杖つく方、車椅子の方などご老人が殆どで、捻挫程度の若造が腰かけるなど有り得ない。

満員電車の中、通る人のために身をひっきりなしによじるみたいに、一時間は直立していただろうか。
ようやく自分の診察の番が来る。
レントゲンを見る限り骨に異常は見られない。
様々な仮説巡らせる説明を受け、おそらくは関節炎であろうとの診断を受ける。大した事はなさそうだ。
ボルタレンシールを貼ってもらう。

相当程度痛みは和らぐが、普通には歩けない。
みっともないが、足を引きずって歩くしかない。
不自由である。
足の大切さが身にしみる。
ヒトが海洋生物なら水辺に浮かんで楽ちんだろう、と無意味なことを想像する。

旅先で見かけたシーンが蘇る。

イギリスのケンブリッジで見かけたサンドイッチマン
丁度、夏。オースティン・パワーズ・デラックスが封切りされた頃だっただろうか。
アンティークの商品案内をカラダの前後に吊り下げ、力なく足をひきずりながら、何の焦点も結んでいないような眼でシティセンターを流して歩く。さながらくすんだ亡霊といった風体だ。

少し胸の痛んだ光景ではあるが、旅情が込み上がってくる。
(胸が痛んだといえば、メクネスで見た体重計屋の女の子である。往来にヘルスメーターを置いて、じっと立つ。通りかかった人がごくまれにそこに乗る。体重を計ってそれでなにがしかの小銭を少女に渡す。おそらくその小銭はどこかで隠れて見ている父や母に召し上げられるのであろう。そんな風に過ごす子供もいるのである。)

近頃旅行はとんとご無沙汰だ。
昨年の今ごろ、ソウルに出かけた。
空港のロッテ免税店でイベントに出席するチャングンソクと2pmを見かけ、もう1年となる。

旅行はヒトには必需である。
家族があれば尚更。
巨大スクリーンで別世界に誘われる映画とも比べ物にならない。

飛行機が当地上空に差し掛かり、遠く地表に未知の街の灯が見える。
ほどなく、他ならぬこの身が、その場に降り立つ。
想像するだけでゾクゾクしてくるではないか。

あらゆる役目と属性から解放され、肩の凝りはほぐれ、空気が美味しく、見るもの聞くものが彩りを増す。
普段は日常のしがらみに覆われて倦んでしまった心が、一気に換気され、新風入って、生きてあることの楽しさ、ウキウキワクワク感が、ビビッドに躍動するかのようだ。

たまには旅行し、生まれてあることの喜びに浸らなければならない。
家族がいれば、そこで共有される思い出は、それこそ不滅の家宝となる。
モノより思い出という言葉があるが、比較することすらアホらしい。