KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ええ国ええ時代

夏至が近づき、朝の4時過ぎには空が白み、涼風に木々が揺れる。眼前の公園は光溢れる予兆に活気づくかのようだ。
無敵の夏がもう間もなくやってくる。

昨日、まだ明るいうちに帰宅し、家内が明石で買い込んだ魚介類に舌鼓打ちながら、クロッシングという映画を観た。
北朝鮮脱北者の実話がモチーフとなっている。

映画の出だしから涙腺が緩み始める。
北朝鮮のどこまでも簡素で侘びしい光景、そこで肩寄せ暮らす親子3人の姿を見るだけで胸が詰まってくるようだ。
そして、彼の国においてのお定まりのように、一家の生活は暗転していく。

妻が結核にかかり、かつて名サッカー選手であった夫ヨンスは、幼い長男ジュニに後を託し、クスリを得るため脱北し中国へ向かう。
しかしヨンスの思惑が叶うはずもなく、残された妻はやがて死に、父ヨンスを探すため中国を目指したジュニは国境で捕らえられてしまう。

ジュニが置かれた収容所の様子があまりに苛酷で胸が潰れる。
暴力と飢えに晒される極限の状態である。

北朝鮮の歪な統治の体制に与せざるを得ないとは言え、収容所の看守らの行状は正視に堪えない。
上意下達のもと下卑た本性を思う存分過激に開花させる。
暴力を堪能し喜ぶ性質が本能として人に内在しているとしか思えない。
それが職務とされるのだ。
ブレーキが働くはずがない。

いまの日本の環境からは想像もできないが、遠い昔、人は当たり前のようにそのような被支配のもと暴力に蹂躙されていたのだろう。
であれば、そこで描かれる光景は、我々自身に引き寄せ考えておかねばならない深刻な課題である。

人はいかなる力学のなかで、指図に従順な歯車となり、非道さ残忍さを暴走させてしまうのか。
巨大な他者がいて、従属することで禄を食むことができる。
異を唱えたり、逆らうなど有り得ない。
面倒なことを考え煩悶するよりは、命令に従って適応する方が葛藤がないだけ楽である。
おまけに評価も受ける。
自己を正当化するため他人の大義を進んで唱え、ますます過剰に自分の手を汚して行く。
充実感すら覚えてくる。
指図に従順な歯車ができ上がる。
話せば分かると通じる相手ではないだろう。

やれ失われた20年だの、100年に一度の大不況だの、14年連続で年間自殺者3万人超だの飽くほどに連呼され、気の塞ぐ話に事欠かない日本であるが、クロッシングで描かれる世界を前にすると、嘆息にも値しないと思えてくる。
日本はなんといい国なのだろう。
歴史上、人類の大半が求めても得られなかった理想郷のような環境が実現されていると言えるのではないだろうか。

修験道の修業で山籠もりした方が仰っていたが、山で過ごすと水の滴のおいしさ、明け方の陽射しの暖かさを実感し、次第に感謝の念で心が満ちてくると言う。
たがが外れぬよう、日々、その気持ちに立ち返るという。

地に足つけて、ありふれた物事に感受性を開き、深く感謝する姿勢を、いつどこであっても、自らの原点にすべきなのだろう。
等身大であるだけでこれほど幸福を享受できる国は滅多にない。