KORANIKATARU

子らに語る時々日記

「業」を抱えた一群が普通の顔して町をゆく。


昨夜、神戸長田女児行方不明事件の顛末の報に接しがっくりとうなだれた。
惨たらしいにもほどがある。
いまも嘆息を止めることができない。

幼い子供が殺められ遺体となって見つかる事件が後を絶たない。
その度ごと事件の酷さに沈痛な思いとなる。
何度も繰り返されて、この沈痛は私たち全員の共通体験ともなっている。

当事者に比べその悲痛ははるかに減衰したものであったとしても、胸に何か詰まって息苦しいような耐え難い思いを誰しもがしているに違いない。


先日のラグビー観戦の後、ちょうど事件現場の最寄駅を通過し、その町を家内と歩いたばかりであった。

秋の好天のもと、行方不明となっている女児について、きっとどこかで軟禁されいているのだろう、生きているに違いない、このあたりのどこかにいるのではないか、と話しつつその身を案じた。

子があれば誰だって他所事ではなく、子が見つからない、という事態については、胸裂かれるような痛みを誰しも覚える。

だから昨夜帰宅し、家内から「見つかった」と聞いたときはホッと安堵し、しかし「遺体で」という語が続いて、目の前が暗転するかのようなショックを覚えた。

一体なんてことなのだ。


人を見たら泥棒と思え、ではないけれど、いまや全方位に対し警戒怠ることのできない時代となった。

誰かがどこかで見守ってくれる、という共同体の安心感は薄れゆき、誰かがどこかからつけ狙っている、という物騒さだけが増していく。

人は見た目では判断できない。
その人がどんな闇を内部に抱え、どれほど渇き密か獰猛となっているのか見抜くことなどできるものではない。

隙あれば罪というアウトプット必定の「業」を抱えた一群が、野に放たれ、普通の顔して徘徊している。


子供こそが未来そのもの。
子がそこにいれば、見守り、手助けし、大人が盾となる。

そうであるはずの社会において、また一人、幼い子供が目も当てられないような凄惨な最期を迎えることとなった。
どれほど怖くどれほど無念であったことだろう。

私たちが平穏に暮らす、目と鼻の先、地続きの場で、私たちが歓談し笑い合い楽しく過ごす地域の一隅で、一人の女児がカラダをバラバラにされ粗末な袋に詰められ捨てられたのである。


地域の紐帯は弱まり世相はますます暗く心閉ざす日本人が増えていく。
街は死角だらけとなっていく。

防犯カメラの抑止効果も知れている。

手を離せば、もうその手を握ることができなくなるかもしれない。
それくらいのヒリヒリ感もって子を守るのは私だと親が腹を括るしかないのだろう。