腹が膨れると子らは席を立った。
いろいろ用事があるのだという。
友だちと行くならどの焼肉屋がおすすめか、そんな会話をしながら店を後にする二人の背に手を振った。
ワインの残りをゆっくり味わい、次回家族会の店について家内と話し合う。
三宮に心当たりの店があるようだ。
子らの好みを忖度しステーキということで話は決まった。
静かワインを傾けていると隣席の会話が自然と耳に入ってくる。
手術といった単語が入るところから、どうやら医者仲間のグループのようである。
アウディやらポルシェやらレンジローバーが1500万円といった話に続いて、隣席の話題は子どものことになった。
一人が言った。
息子は星光に行かせてるんです。
わたしは家内と顔を見合わせた。
世間は狭い。
隣席とこちらは、誰か知人が間に一人入るくらいで繋がる間柄に違いない。
席を立ち、目隠し用のロールカーテン越しその星光パパの顔を見届けてから店を出た。
上六まで歩き阪神電車で帰ることにする。
その昔、塾を終えたあと二男が辿った帰り道である。
夫婦してかつての二男の目線になって電車に揺られる。
車内は混み合い大阪的空気に満ち満ちている。
子どもの姿なんて一人もない。
時は流れものの見え方感じ方は変化する。
その時その場で思ったことは、あくまでその瞬間のもの。
俯瞰してみればどの瞬間もひとつの通過点であり全体を構成する細部にすぎない。
見知らぬ大人らに囲まれての電車での帰途、ひとり吊革につかまる二男の胸中には様々な思いがよぎったことだろう。
当時の思いはまだ記憶に留まっているだろうが、状況は変わって景色も一変した。
オセロが裏返るみたいに、そのとき思った気持ちの色合いも変化していることだろう。
わたしたちも同様である。
駆け出し夫婦の頃はいろいろたいへんであったが、気づけば見晴らしは様変わりしていた。
長い目で見る、という視点がどれほど大事なものであるのか今では深く実感できる。
反射的な感情に支配され何かを投げ出していれば今はなく、永遠にスタートラインでぐずぐずしていたのだろうと思う。
先々、開花するものがある。
そう思えば長い旅路にあるようであって、その先の楽しみが今このときにまで押し寄せてくる。
過ぎ去った楽しみにしみじみひたるのも悪くはないが、これからの楽しみを予感する方が実は一層味わい深い。
夜10時過ぎ、わいわいがやがや、さあこれからだと騒がしい夫婦二人はさぞや目立ったことだろう。
家に戻ると子らはすでに各自の課題に取り組んでいた。