1
二度、死にかけたことがあった。
和食屋のテーブルで差し向かい。
事業主は語り始めた。
若気の至り、その真っ盛りの頃。
その夜もいつものように六甲の山道をバイクで攻めていた。
態勢を傾けながら猛スピードでカーブに突っ込んでいく。
ふと路面に何か黒い液体が流れていることに気づいた。
先を走っていた車両のオイルか何かだろうか、そう思ったとき、とつぜんタイヤが滑った。
横転しバイクがグルグル回転する。
場面場面がコマ送りとなったみたいに、今も鮮明にその状況が記憶に残っている。
カラダは道路の端に向かってまっしぐら滑り始めている。
眼前にガードレールが見える。
向こうは谷だ。
死が訪れようとしている。
こんなキワに自分が冷静であることが不思議だった。
間近に迫りつつあるガードレールを凝視する。
と、その漆黒の空隙に無数の顔が浮かび、薄気味悪く笑っているように見えた。
錯覚かもしれない。しかし、間違いなく、そこに並んでいたのは人の顔であった。
身が竦み、思わず顔を伏せた。
ガードレールの下の隙間にカラダが滑り込む。
同時にとっさに右腕が伸び、ガードレールに腕をからませた。
すべて無意識の動きであった。
ガードレールに顔面を強打していればその場で即死していたであろうし、腕が伸びなければ谷底へ転がり落ち絶命したに違いない。
その危急の瞬間、何かの力が働いて自分は助かった。
そうとしか思えなかった。
バイク仲間が異変に気付いて駆けつけ助け上げてくれたとき、震えるような恐怖心がせり上がってきた。
腕にはまだ当時の傷跡が生々しく残っている。
2
二度目は中年に差し掛かった頃のことであった。
不動産の契約案件があって客先へ向け日曜早朝の池田線を飛ばしていた。
雨が激しく降っていた。
路面の轍に水たまりができている。
派手にしぶき上げながらクルマを走らせる。
急がねばならなかった。
すると突然、クルマが左に流れ始めた。
とっさに右にハンドルを切る。
しかし、クルマはもはや操作できない状態となっていた。
ハイドロプレーニング現象というやつだ。
クルマが回転し始め、更に左に流れた。
左壁面に激突し、その反動で道路中央に跳ね返される。
気付いた時、進行方向とは対面でクルマは止まっていた。
雨のなか、後続のクルマがけたたましくクラクション鳴らしひしゃげたサニーを間際で避けていく。
慌てて発煙筒をクルマの前方に放り投げた。
自分が血まみれであることに気づいた。
シートベルトなどしていなかった。フロントガラスに顔面を強打していた。
ハンドルで胸が圧迫されたせいか、呼吸も苦しい。
日曜の朝だったのが不幸中の幸いであった。
もし平日並の交通量であれば大事故必至であり、絶対に助からなかっただろう。
死に体で、這い出す。
路側帯を歩く。
電話を探さなければならない。
そのとき、一台のクラウンが停車した。
おい、にいちゃん、乗れ、と声をかけてくれる。
血まみれなので迷惑ではと自らを指さし躊躇するが、早く乗れと急かされた。
間近の高速出口では救急車が待機していた。
事故情報がすでに伝わっていたのだろう。
そこから病院に担ぎ込まれたはずだが、その経過については全く記憶がない。
後日談。
現場に駆けつけたという警官の話。
車両は血まみれで、そしてフロントガラスがくっきり鼻の形で凹んでいた。
ドライバーは助かるまい、そこに居合わせた者は皆そう思った。
3
事業主は笑って言った。
今も鼻は少し曲がったままである。
医者に整形することも勧められたが、あえてそのままにした。
クルマが回転し始めたとき、不思議なことに時間の流れがゆっくりになった。
走馬灯、というがあれは本当のことである。
一体なぜだろう、学生時代のアルバイトの光景が実に楽しく目の前に浮かんでいた。
その昔、石焼き芋を売っていた。
一日8千円で軽トラを借りて、芋を仕入れてあちこち回る。
売値は自由に決められた。
やり始めた頃は、一番実入りいいのは駅だろうと当て込んだ。
しかし、いろいろな駅をあたったが、通り過ぎる人ばかりであり、挙句にはヤクザに因縁つけられるということが絶えなかった。
あるときたまたま老人ホーム近くを通りかかった。
受付のおばさんが走り寄ってきて、結構な数を買ってくれた。
はじめての「大漁」だった。
お年寄りは石焼き芋が好きなのだ、そう気付いてからは、老人ホームに的を絞った。
大正解だった。
そして思わぬ副産物もあった。
老人ホームに入所しているお年寄り達は二十歳そこそこの自分をとても可愛がってくれた。
焼き芋を買ってくれるだけでなく小遣いまで握らせてくれるようになった。
仕事が楽しくなった。
彼女を軽トラの助手席に乗せ手伝ってもらうようになった。
それがデートのようなものであった。
あのとき、自分は幸せだった。
お年寄りが喜んでくれる顔がいくつも浮かび、はっと気付いたとき、激しく雨打ち付ける池田線の真ん中、自分は血まみれであった。
4
その事故を契機に仕事を辞めた。
決して、大破したクルマの修理費用80万円を自腹で払わされたからではない。
不動産売るような駆け引きがつまらなく思え、真面目に取り組む気は失せていた。
ささやかであれ、たくさんの人に喜ばれるようなことをしたいと思った。
両親は、目を背けたくなるような苦しみに満ちた臨終を迎えた。
だから、いずれは自分も苦しんで死ぬのかもしれないし、薄ら寒い思いで死ぬのかもしれない。
でも、もしかしたら、あのときのように、幸福だった思いのなか最期を迎えられるようなこともあり得るだろう。
介護か教育か、少し悩んで、未来の膨らみ多い教育を職業に選ぶことにした。
手習いからはじめ、いまではオーナーという立場になった。
体力的にも経済的にもしんどいことだらけであったが、間違いなく、幸福だった。
やればやるほど、巣立った生徒から届けられる良き知らせが増えていく。
来月は、教え子の結婚式に出席し祝辞を贈る。