朝10時、実家の前にクルマをつけた。
玄関で待っていた父を助手席に乗せ、空晴れ渡る日曜日、クルマを生駒へと走らせた。
母が他界しまもなく半年になる。
が、いないということがまだ信じられない。
みな感じることは同じだが、ともに暮らした家で過ごす父はなおさらだろう。
いまでも物音が鳴ると、帰ってきたのではと目が覚める。
父がそう言う。
母が帰ってくる場面が頭に浮かび、その笑顔と明るい口調がよみがえる。
クルマのなか、みなが押し黙った。
その沈黙を和らげるよう、後部座席に座る家内が母の思い出を静かに語った。
ほんとうにいいお母さんだった。
ありがとうと言って、父の声は詰まった。
特別な日でもないはずだったが霊園には多くの人の姿が見えた。
天気のいい日曜、そこに眠る家族に会いに行こう、そう思う人は少なくないのだろう。
三人で周囲を掃除し墓石を洗った。
お供えを並べ線香をあげ、それぞれ手を合わせ、無言のまましばらくそこで過ごした。
墓参りを終えた後、わたしは焼肉屋に向かうつもりだった。
わたしがそう持ちかける前に、父の方から切り出した。
どこか焼肉屋で昼にしよう。
森ノ宮で高速を降り、明月館に向かった。
が、すでに列ができていた。
並びにある海南亭もすでに予約で埋まっていた。
では、と行き先をアジヨシに変えた。
混み合う前になんとか席にありつけた。
イチボ、ロース、ハラミといった柔らかい肉を注文し、父と家内が生ビール、わたしはノンアルを頼んだ。
半年が過ぎ、父の食欲も幾分か回復し、ときおり笑顔も見え口数も多少は増えた。
ビールが2杯目になったとき、いろいろな昔話が語られ始めた。
小学3年の頃から仕事をしはじめたこと、若い頃は運送のバイトで西宮や神戸までよく足を延ばしたことなど、何度も聞いた話が繰り返された。
父は言った。
だから阪神大震災の日の当日、バイクで水や食料など物資を神戸まで運ぶことができた。
43号線、2号線、山手幹線をあみだのように辿れたのは運送のバイトで道を知り尽くしていたおかげである。
昔を懐かしむ父の様子は誇らしげだった。
横を見ると家内が父の姿をiPhoneでそれとなく撮影していた。
このあと息子二人に送るのだろう。
こういう場面で機転が利くからさすがの女房である。
勘定をする際、ちらと見ると父と家内が店の前で言葉を交わし、父が上機嫌に笑っているのが目に入った。
今後しょっちゅうさそって食事に出よう。
わたしはそう思った。
駐車場へと向かう途中、散歩がてら歩いて帰ると父が言うのでそこで別れた。
その背を見送り、父の横を母がいま一緒に歩いているように思え、そこではじめて涙が抑え難いものとなった。