KORANIKATARU

子らに語る時々日記

老人は常に誰かに話しかけている。


数学セミナー10月号の巻末に「ピタゴラス奇素数から格子直角三角形の存在を考え解に到るための条件を導く」という33期岡本くんの考察が紹介されていた。
彼は走って泳いで診察するだけの整形外科医ではなかった。

家に招いて、数学について子らに直々話してもらわなければならない。
我が家の数学担当は岡本くん、と決まった。


この日曜日、長男の学校の友人らが遊びに来ていたようだ。
一緒に二男も混ざって遊び、連れ立って夕飯も一緒に食べたらしい。
好ましい異文化交流。

違う学校の上級生を見て学ぶことも有意義なことだろう。


この週末、911事件に関する映画として「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い 」を見た。

このテロで少年は父を失くす。
少年は考える。

太陽が爆発して消え去っても、僕たちがそれに気づくのは8分後だ。
8分間、太陽はまだそこにある。
僕と父さんの8分間は引き延ばせるかもしれない。

少年は父が何かメッセージを残したのではと懸命にそれを探す。
その過程こそが「8分間」と言えるようなものとなった。

そして意外なところで少年は父からの心温かいメッセージと出合うことになる。
波が静かに寄せてくるように感動が胸に迫ってくるシーンである。

少年はそのプロセスを経て父の死を受け入れ、ようやくその苦しみと悲しみを乗り越えることができた。
父であれば誰でも、子と取り結ぶ「不在後の8分間」について深く考えさせられることになる。


引き続き見たのが「セプテンバー11」。

911事件はアメリカにとって悲劇であった。
しかし、世界を俯瞰し歴史を省みれば、因果の元ともいうべきアメリカによる各国への軍事介入が数々あった。

世界各地の映画監督の手による計11の短編はどれも11分9秒からなる。
911について被害者であるというアメリカを客観的な視点で観ることで、より一層深く世界の真実を知ることができる。

序盤、イランに居留するアフガン難民の子供たちが描かれる。
着の身着のままといった貧しい子供たちであり、なかには子供なのにそれしか着るものがないのであろう背広をまとう子もあるが、皆が皆、表情が無垢で美しい。
教師の合図で、この子供たちが911で亡くなった人たちに黙祷を捧げる。
アメリカの在り方をこれほど問い詰めるような映像はないだろう。

メッセージ性の強い作品が続く。
アメリカがチリに軍事介入し3万人を殺戮したのは1973年9月11日のことだった。
貿易センタービルから飛び降りる人々の姿をフラッシュバックのように捉える映像もある。
911の犠牲となり亡くなった息子が日頃乗っていた電車を見つめる母の姿。
テロが日常のように起こるテルアビブ、、、計11の作品はどれもこれも痛烈な痕跡を観る者の胸に残していく。

歴史のプロセスのなか、人間は少しずつ賢くなって少しずつマシな存在となっていくというのは思い込みに過ぎず、この先もずっと人間はこのようなことを繰り返し、ただただ悲嘆にくれるという存在なのだろうか。

この作品で、ショーン・ペンは独居老人を描いた。

老人は常に誰かに話しかけている。
同居人でもいるのかと見ていて最初は思うが、どうやら一人きりであると分かる。
部屋は殺風景で老人は孤独だ。

911のあった日、植木鉢の花が咲いた。
老人は大喜びでそれをいつも話しかけているダーリンに見せてあげようとする。
もちろんダーリンはいない。
とうの昔からいないままであり、そのことを老人は知っている。

植木鉢を見せようとして、ダーリンの不在という厳しい現実を老人は自らにつきつけることになった。
老人は伏せって泣く。
悲しい泣き声が部屋に響き渡る。

911だけで人が亡くなるのではない、人はいつだってどこだって亡くなっていなくなるのだというのがショーン・ペンのメッセージなのであろう。
確かにそうである。
いつだってどこだって、人は亡くなり、いなくなる。
その悲しみとともにあるしかない。

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