1
なんとも気怠い。
運転するのが面倒で豊中方面へは阪急電車宝塚線を使うことにした。
雨が昼から降り続く。
バックを肩に掛け傘を差す。
大阪駅で乗り換える。
いつもどおり人でごった返している。
先日訪れた京都駅も混み合ってはいたが行き交う人の流れに秩序のようなものがあった。
大阪はまさにカオス。
縦横斜めだけではなく上からも下からも人が押し寄せる。
それに一体なぜなのだろう、11月も中旬を過ぎてなお蒸し暑い。
進路を保つには大縄跳びに入るような要領でタイミングを見出し続けねばならない。
あるいは、縄など気にせず踏もうが当たろうがブルドーザーのように進むしかない。
阪急梅田へと続くアプローチから地上を見下ろす。
雨にけぶって佇むビル群の根っこには無数の傘。
それらが不規則な軌道で右へ左へと蠢く。
小さな子であればここを行くのは脅威であろう。
2
先日のこと。
駅のホームで家内が並んでいた。
混み合ったホームの無秩序に乗じ列に割り込むおばさんらがあったという。
電車がやってくる瞬間を逃さず列を横から崩しカラダをねじ込もうとする。
大阪である。
「こら、おばはん」
このようなぶっきらぼうな言葉を誰かが発してもおかしくなかった。
しかし聞こえてきたのは穏やか響く声だった。
「小さい子も見ていますよ」
やんわりとした物腰で紳士がおばさんらのルール違反をたしなめた。
おばさんらの動きは止まった。
荒みかねなかった場の空気がその一言によって一気にほぐれた。
家内も感心したという。
「小さい子が見ている」。
すべての大人がそう自覚するべきことなのだろう。
その話を聞いてから、そこらにいるのかもしれない子どもの存在をふと想起するようになった。
3
夜、夕食時。
ヒレカツに添えるなら大根おろしだと長男が主張する。
長男と二男が並んで大根をする。
二男が長男に今日の学校での出来事を話し始めた。
ハイボールを飲みつつその話に耳を傾ける。
休憩時間のとき、教室の後ろから丸めた紙が飛んできた。
子どもがする他愛のないいたずらだ。
私だって誰だって紙や消しゴムの一つや二つ投げた覚えがあるだろう。
二男はその紙を友達に投げ返した。
命中せずそれは教室の後ろに転がった。
そして、教室を汚した罰としてその日の掃除を一人でするよう二男は命ぜられた。
寡黙な健さんみたいに誰がどうだと言い訳したり騒いだりせず、二男は一人で掃除を始めた。
そのゴミを生じさせ放置したのは二男に他ならず咎められても弁明しようがないことだった。
反省すべきは二男であった。
二男が掃除にかかると、紙を最初に投げた友達も当然のように二男を手伝い始めた。
それだけでなく、請わずとも友達数人がすすんで助太刀してくれた。
結局、普段よりも早く効率的に掃除が仕上がることになった。
多かれ少なかれどこの学校だってそうであろうが、大阪星光は特にそう。
この先ずっと誰かが腰を上げ互いを助け合うことになる。
隣近所、近親縁者が仏頂面で覆われようと、ここだけは別世界。
特異とも言うべき親密さが自生しそれが先々ますます生い茂る。
子らはみんな見ている。
大人の行動を見るだけでなく、子供同士互いを見て真似ぶ。
4
引き続き夜、ケン・ローチ監督の処女作である「オレンジと太陽」をひとりリビングで見る。
1920年から1970年に渡って私生児など大量の児童が親元から引き離されイギリスからオーストラリアへ強制移民させられた。
政策として行われ総計13万人の白人の子が送り込まれた。
その史実に基づく映画である。
母親は死んだ、オレンジが食べ放題の国へ連れて行ってあげるといった虚言と甘言で異国へと連れられた子らの境遇は熾烈過酷なものであった。
一方、親は親で子の行方について、施設や富裕な家庭で暮らしているなど政府に騙され続けた。
子どもたちは教会の建設など重労働に従事させられ、売女の子などと侮辱され性的に陵辱されるような日常を余儀なくされた。
ある社会福祉士の活動により隠密裡に行われたその施策の存在が突き止められ、その助力により幾人かが実の母と再会していく過程が映画で描かれる
携わった慈善団体や聖職者たちは口を並べて、恵まれない子を救うために行ったとその行為を正当付ける。
しかし実際に移民となった人物を聴取し得られた実像は「救い」とは正反対としか言いようがなかった。
数々語られるその子供時代は察するに余りある悲惨さであった。
誰が何をしたのか。
子どもたちはちゃんと見ていた。
大人自身がその欺瞞に自ら欺かれ、蛮行を救いだと取り違えていく寒々しい構造が映画によって明るみにされる。
何も異国だけの話とは言えないであろう。