KORANIKATARU

子らに語る時々日記

こんなひどい話はない

朝一番、AMラジオにチューニングを合わせる。
仕事の立ち上がりの時間帯、ちょうどいい具合にAMの音声が耳に馴染む。
FMだと音に主張があり過ぎて耳に障りテレビだと目にも障って気が散ってしようがない。

胎内で聴いた母の鼓動のようなもの。
そう例えられるかもしれない。
昔懐かしの、心落ち着く波長の音色がAMから発せられているのであろう。

この日は朝5時から作業を始めた。
MBSの子守さんのてんこもりを流す。

放送が始まっていきなりのっけからニュース速報が入った。

こんな未明に何事であろう。
地震かテロか。
不吉な予感がよぎる。

アナウンサーが伝える。
軽井沢へと向かう夜行のスキーバスが崖下に転落し三人の方が心肺停止状態である模様。

なんてことだろう、その一報を耳にし息が詰まって気が塞ぐ。

夜行のスキーバスということは大学生らの一行に違いない。
未明の時間、子の深刻な容態について唐突に知らされる親御さんらの様子が頭に浮かぶ。
とても正気ではいられない事態である。

いったいなんでこんなことが起こるのだ。
憤りつつネットでニュースを見ると三人どころでは済まない重大事であることが次第に明らかとなってくる。

日本中みなで年明けを祝ったばかりである。
いい年になりますようにと手を合わせまだ半月しか経っていない。
しかも春は目の前である。
平穏な日常がつつがなく続くのでなければおかしいではないか。

いったいなぜその平穏が突如切り裂かれるようなことにならなければならないのだ。

あってはならないことである。
親御さんにしてみれば、こんなひどい仕打ちはないだろう。

1月15日の未明、連絡を受けた瞬間のことは生涯に渡って頭を離れないだろう。
すべてをひっくり返されたかのような、目の前が一気に暗転するかのような、心を失ったような状態に苛まれ続けることになるのではないか。

察するに余りある。

こんな苦しいことはなく、そして愛して止まなかった最愛の者と、もう会うことが叶わないというのであれば、苦しい上に更に苦しく、いったいどうしてくれるのだという慟哭避けられないような話ではないか。

こんなことがあっていいわけがない。
命を預かる仕事であるとの弁えは運転手と事業者にちゃんと備わっていたのだろうか。
責任の重さを安易に捉える心得違いがあったのだとすればとても許されることではない。

せめて一日前に戻れるのなら。
このような事故が起こった時にはいつもそう思う。

昨日までは何事もなかったのだ。

何事もなかったその一日前に戻れるのなら、親は子の首根っこを掴んで羽交い締めにして断固としてその出発を阻止できる。
片時もその身を離さず、その身をこの手で守ってあげられる。

一日前に戻れるのなら誰もがそうするに違いない。

こんなひどい話はない。

時間が進む先の未来に最愛の者はおらず、過去にしかその姿を求められないのであれば生きることはどれだけ苦しいことだろうか。
淀みなく流れていた時間が決壊し氾濫するようなものであり、もはやこの先、どのように心を保てばいいというのだろう。

過去の日を思いそこに戻って待避し続けるということになるのだろうか。
であれば、犠牲者はそれら若者だけでは済まない話だ。

いったい何人を殺したことになるのだ。

旅客運送に携わる者の責任の重さについて、後で肝を冷やしても遅すぎるのである。
ちょっとした不心得がもたらす結果は非対称にもほどがあるほど甚大で、あとで取り返しつかず償えるものでもない。

石橋を叩いて渡る。
安全を確保するにはそれでもまだ足りないくらいであるとの恐怖にも近い理念を旅客運送事業者に行き渡らせ、自浄作用が期待できる業界には思えないのでお上が目を光らせ相応の法的義務を課すしか再発防止は望めないのだろう。

もしくはいっそのこと、不毛なイタチごっこを繰り返すのはやめ、自動運転の技術を旅客運送に導入してしまうのが手っ取り早くかつ抜本的な解決となるのではないだろうか。
それで困る人が多々生じても、そこらは激変緩和措置を講じつつ、前へと進めていくしかないだろう。

もう二度とこのような酷い事故はあってはならない、誰だってそう願っているに違いない。

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