去年の今頃はほとんど日記を書いていない。
遠出でもしていたのだろう。
あれから一年経過し、相変わらず平穏な日常が続いている。
仕事を終え帰宅し今夜も連れ立ってジョギングに出かけた。
その合間に二男が風呂の支度をする。
走り終え風呂を済ませて食卓につく。
近隣名店の聞こえ高い品々が食卓に色を添え、それらを分けあって食べる。
食事しつつ長男からのメールを皆で覗き込む。
添付されている動画をクリックすると朝靄にけぶるバス停が映し出される。
彼の視線と同化してその光景に見入る。
そうして一日の幕が閉じていく。
その繰り返し。
何の変哲もない平凡な一日であるが、積み重ねれば結構分厚い。
ずっしと来るような確かな手応えをそこに感じる。
もちろんたまには一風変わったイレギュラーな日も不可欠で、それらが織り交ざることで日常の彩りは増すけれど、万一度が過ぎ配分比率を誤ってしまうと、がちゃがちゃとやかましく心地いい落ち着きはたちどころに失われてしまうに違いない。
昨日と同じような今日が地味に静かに過ぎていく、それが生活の基本形となるべきなのだろう。
各自が無理なく、自然な力加減で毎日を過ごし、そしてその時間を家族で共有する。
そのように過ごし夫婦で一致し願望するのは突き詰めれば子らの幸福という一語に尽きるだろうか。
息むことなく気取ることなく、子らが自然な感じで、平穏無事な日々を過ごせるようになってくれればそれでよく、そう想像するだけで幸福の何たるかを感知できそうに思え、私たち夫婦は何時間でも楽しく和やかに会話し続けることになる。
昨年の三月はほとんど日記を書いていない。
いま、幸福を思うことができることの有難さをひしひしと痛感する。
静かに穏やかに、自らのささやかな役目を果たし、家族と生きて行ければそれが何よりだ。
ちょうどいま、家族四人の息が合っている。
後は順番通り。
ゆっくと時間をかけて、子らが空気を共有するメンバーは変化していくのであろう。