KORANIKATARU

子らに語る時々日記

百年や千年もの厚みがあるかのように抱きしめる

仕事を終え天王寺から電車に乗って実家に向かった。

もちろん日本酒も忘れない。

先日、姫路で買った八重垣をこの日は携えた。

 

夜8時。

夕飯も終わった頃合い、テレビを見て過ごす両親の炬燵に混ざった。

 

うちは結婚20年目だが、こちらは51年目。

年季が違う。

 

ではではとお酒を注いで、何を話すでもなくひととき過ごす。

要らないと何度も言うのに母が手料理をこしらえ食卓に並べるものだから、ほんの少し飲むだけでのつもりが、父子ともに酒豪のスイッチが入ってしまい、あっと言う間に酒瓶は空になった。

 

ほどよい頃合い、席を立つ。

母が玄関まで送ってくれる。

数歩歩いて振り向くと、母がまだこちらを見ているので、手を振った。

 

夜の環状線に揺られて家に戻る。

かつての本拠を後にし今の本拠に至って、帰りを待っていた家内と二次会。

 

身を切るような寒さの夜、焼酎のお湯割りがことのほか美味しくて温まる。

太刀魚の煮付けに箸をつけつつ、家内の話に耳を傾け、そうこうしているうち息子らが家に帰ってきた。

 

思えば、あっという間の20年であった。

だから50年経つのも、同じくあっという間に違いない。

つまり、この一瞬も20年も50年も同じこと。

 

時間の厚みについてぼんやり考え、その差異を実体として感取する知覚など人には備わっていないのだと気づいた。

あっと言う間と語る以外に指し示しようがなく、せいぜいあるのは思い入れだけ。

 

つまり、そもそもこの一瞬しか感知していないのに、まるでウイスキーの銘柄のように20年ものやら50年ものと名付けて、そこに深みを見出し感情を投影することができるだけということである。

 

だからもっとも濃厚な時間の味わい方は、何の変哲もないこの一瞬であっても、まるでそこに百年や千年もの厚みがあるかのように、愛でて抱きしめること、と言えるかもしれない。

 

たとえば真冬に暖か家族で過ごすこの一瞬は、太古から人類が求めて止まない究極の理想の時間であったと言って間違いないだろう。

そう思えば、いまここに在ることの幸福を腹の底から実感できる。

 

子らにも伝えたいが、この感覚を理解するにはもう少し年季が必要かもしれない。

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2019年1月16日夜 実家に届けた日本酒