メールが届く。
画像が二枚添付されている。
いずれも後ろ姿が捉えられている。
ちょうど玄関を出て通学のため駅へ向かうというところ。
一枚は先に家を出た二男の後ろ姿。
もう一枚は後に続いた長男のものだ。
仮面ライダー1号が古巣に戻り、留守を預かっていた2号と揃い踏みとなった。
両男子が並び立ち、我が家の明るさ分厚さはいや増しになったように思える。
後ろ姿は非言語に属し寡黙だが雄弁だ。
その背が負って発する何かを言葉に読み替えようとしてみる。
誰であれ誕生した時点からタブラ・ラサではなく、隠し絵のごとくその背に何かが刻印されている。
しばらく写真に見入り、そして思い出したようにまた見入る。
まだ若く脆く危うく、しかし頼もしいような気もするが言葉には帰着しない。
その背が負うものの全貌が明らかとなるのは、もっと先ずっと先のことであろう。
自身の背を直接見ることはできず、そこに密やか描かれた未来を親であっても読み解くことはできない。
様々な経験から学んでやっと黙示的にその詳細が一つ一つ明かされ告げ知らされていくことになる。
たいへんなことだらけの世であるが、屈することなく飄々とかい潜って、その背に託された使命のようなものに到達しそれを嬉々ウキウキとやりぬけるならどれほど素晴らしい人生だろう。
どうかご加護がありますように。
親はただそう願うだけである。
折りに触れ、その後ろ姿をそっと見守る。
後ろ姿が成長の軌跡を表象する。
一人前となったその背はご来光のようなもの、それを見届ければ、もはや親として思い残すことなど何もない。