KORANIKATARU

子らに語る時々日記

日記という文脈でしか伝えられないこと

クルマを使えば良かったと後悔しつつ市内を徒歩と電車で回った。
暑いなか外気に晒され続け、持て余すほどの熱が体内に充満してしまう。

熱冷ましが必要だ。
終業後、ちょいと一杯、飲み屋に入った。

客もまばらなカウンターに腰掛け瓶ビールを注文する。
最初の一杯、のどが歓喜する。

家で夕飯が待つ。
だからこれは食前酒のようなもの。
つまみは軽く冷奴だけにする。

一人なので所在がない。
ふと思い立ち、iPhoneで昔の日記を読み返す。

過去をしんみり回顧しつつ飲むビールは味わい深い。

何十年も先のこと、いまわたしがするように、この日記をスクロールする息子らの姿が目に浮かぶ。
所帯はどんな様子か、仕事は順調に捗っているのか、場所は大阪か東京かはたまた遠い異郷の地か。

どのような境遇であるか知る由もないが、所在なく一人酒場で子らが喉潤すようなときこの日記を紐解けば、いつであろうがどこであろうが、そこにわたしは現れる。

呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん。
ハクション大魔王はツボからであったが、わたしの場合はクリックひとつで草葉の陰からでも這い出してくるということになる。

そのような再会の場面を思い巡らせると今から待ち遠しいような気持ちになってくる。

二本目のビールを注文したとき、イルカの海岸通という曲が流れ始めた。
耳を澄ませ聴き入る。
「港に沈む夕陽がとてもきれいですね
あなたを乗せた船が小さくなってゆく」
なんていい曲なのだろう。

小さくなってゆく、沈む夕陽の側の視点となって想像してみる。
波止場に立ってわたしを見送る子らの長じた姿が目に映る。

人類普遍、何度となく繰り返されてきた光景だ。
別れにつきまとう寂寥と孤独が込み上がるようで胸が詰まって、一方、その大いなる循環に郷愁のようなものも覚える。

痛かろうが苦しかろうがいちいち騒ぎ立てず、様々なものを胸に押し留めたまま、誰もがここを去って行った。

ビール二本で感傷まみれとなって家へと帰る。

そしていつもどおり明るく楽しく家では過ごす。
感情すらも分かち合うのが家族だと若気のわたしは思い込んでいたが、例えば不安や心配といったネガティブな心情を大人が垂れ流せば感染力が強すぎて、何の足しにもならないどころか負のスパイラルを発生させかねない。

受験勉強など一部の場面を除き、誰かを心配させてそれが益となることはほとんどない。

だから気がかりな案じ事があったとしても、一人で胸に秘め一人で背負っておくびにも出さないというのが大人男子の最低限の作法となる。

たとえば、大げさかもしれないが、明日死ぬと分かっていてもそれを口にも出さず素振りも見せず、来年の旅行の計画について楽しく話すくらいの恬淡さがあっていいくらいの話だと言えるだろう。
自らがいようがいまいがそんなことにはお構いなく、来年の旅行という希望がそこに残るなら、希望を優先させるのが大人の役目であるに違いない。

このように日頃口にしないようなことであっても、日記には書くことができる。
日記という文脈でしか書けないことが、まさにちりも積もればで、だんだんと巨大な量に達している。

何軒はしごしても読み切るのは容易ではない。
夜はこれから。
長い付き合いとなりそうで実に楽しいことである。

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