昼にラーメン屋に入り迷わずチャーハンセットを頼んで思う。
この歳になってさえどこかに学生気分が残っている。
中年真っ盛りであれば、健康への気遣いや体調に配慮し、もう少し控え目な品を注文をしてしかるべき。
注文した直後にそう悔い、実際、寄る年波、後でしんどくなるのであるから、これなら食べずに済ます方がよほど快活に仕事ができたと反省することになった。
夜も同様。
定番である正宗屋も連日になると飽いてくる。
食べたいものが思いつかず、ぶらり気軽に入れる店もあまりなく結局思慮深めないまま、ふらり目についた回転寿司に入ったのであるが、美味しいと思えず箸が進まずしかし今更他の店に行く気にもなれず、沈思しつつ腹八分目程度は食べ、何でよりにもよってこの歳で夜に炭水化物を口にしているのだと後味の悪さを募らせたまま席を立つことになった。
もはやわたしは学生ではなく、息子が学生という年の頃に差し掛かっている。
大人であることの資格が分別の有無に依るものとすれば、いまだわたしは無分別に過ぎ若気の至りが目に余る。
例えれば、高めのボール球にうっかり手を出し凡打を繰り返す頭が空っぽの打者みたいなものである。
野球が人生に示唆することは結構大きい。
その教えるところによれば快打を期すなら狙い球をあらかじめ絞っておくべきで、もとよりボール球に手を出すなどもってのほかであり、ラーメンではなく冷麺、寿司ではなく焼鳥といったようにストライクゾーンに来る好球を必打すべきということになる。
そういった選球眼がベースとなって打撃スタイルが形作られ、実績を生むお手本となっていく。
そして、ひとつの様式として確立された在り方はいつだって美しく人を善き方へと導く。
つまり、食べたいと思ったものを食べる思いのままより、衝動を昇華させた選球眼の洗練の方にこそ価値があるということである。
日常の些細においても価値ある方を選びとる、それが大人というものだろう。
無価値を選ぶからこそ悔いが残る。
人生後半、悔いは少ないに越したことはない。





