息子の塾を訪れて夕刻。
大阪駅の改札をくぐった瞬間、正宗屋のことが頭に浮かんだ。
ずいぶん長い間ご無沙汰している。
今日あたりちょうどいい。
わたしは環状線で天王寺に向かった。
カウンターに陣取って、早速いつもどおり定番を注文していった。
わたしの左隣は、孤独を託つといった雰囲気の中年男性。
空いていた右隣には学生っぽい青年が座った。
初心者とみえ青年は注文に先立ち店員に売れ筋を尋ねた。
逡巡しつつ結局彼は、串カツ、どて焼き、ポテトフライを選んだ。
基本に忠実な選定と言えた。
真横だから青年の反応がつぶさに分かる。
アサヒのスーパードライを飲み、串カツとポテトをがつがつ食べ進めている。
その食べっぷりが、おいしいと語っているも同然であった。
ところが、どて焼きにだけは一切手を付けない。
最後の楽しみにとっている風でもない。
ちらと目をやると、どて焼きの表面は脂の膜で固く覆われ始めていた。
食べるつもりがないことは明白であった。
おそらく青年はひと目どて焼きを見て、気色悪い、これはとても口にできないと判断したのだろう。
その昔、似たようなものを口にし、ひどく困惑した経験でもあるに違いない。
「カラダに有害かも」といった原始的なセンサーが備わっているから人は生き延びることができ、ことサバイバルに関しての判断は重大だから簡単には覆らず、性懲りもなく試すといったことが起こり難い。
わたしはふと思った。
食べ物に限らず人に対する嫌悪感も、同様の理屈で説明できるのではないだろうか。
巷間よく言われるのが、誰かが嫌いという感情は、実はコンプレックスの裏返し。
妬みや僻みに端を発する近親憎悪が嫌悪の真実といった説明がされることがあり、わたしは疑問を抱いていた。
もちろん嫌悪と羨望が重なるケースも想像はできる。
しかし根本的には異なる由来の反応であるはずで、だからそれらを混同しての説明に納得がいく訳がなかった。
正宗屋の定番を味わいながら、わたしは試しに不快覚える人のことを思い浮かべてみた。
内も外も空っぽなのに勝ち気がまさって虚言と虚勢の癖が抜けない人がいて、その内実の欠如の深刻に軽く震えて気分が悪くなる。
どう考えてもこれはサバイバルにまつわる価値判断を経ての出力であって、羨望からはほど遠い。
青年はどて焼きを食べず、後日、どて焼きに手がつけられなかったと友人に話すこともあるだろうが、その真意は食べたいのに食べられなかったから悔しくてどて焼きをこき下ろす、という話ではないはずで、それと同じこと。
そんなことを考えながら、どて焼きに目をやって、「これどうですか」とこちらに譲ってくれればいいのにと期待するも時間だけが経過しやがて青年は席を立ち、わたしはその空白に一瞬のスキを窺うが、店員がすぐにやってきて、わたしの淡い夢も含めて丸ごとすべてが一掃された。