午前中に業務を終え事務所近くのジムに向かった。
あまり足が遠のくとカラダが弱って免疫力が落ちる。
そう思うと運動したくてたまらないという気持ちになる。
普段よりも清掃が行き届いているのに驚いた。
どのマシンもまるで新品、ピカピカに光って見えた。
人もまばらで実に快適。
家内が作ってくれた携行用のアルコールスプレーを使ってこまめに手を消毒しながら一時間ほど汗を流した。
気分爽快となって奈良葛城に向かった。
会議の後、懇親会の場所は王寺のかごの屋。
隣に座った初老男性の話が興味深かった。
毎週滝に打たれに行く。
かれこれ10年以上続く習慣だという。
サウナやジム通いみたいにストレス解消になるのだろうか。
わたしがそう聞くと男性は大きく頷いた。
滝に向かう途上では気が滅入る。
寒いしキツいので決して楽しくはない。
しかし、滝に打たれ始めてしばらくすると意識が変性し透徹感と充溢感に包まれる。
この気持ち良さは日常で得られるものではない。
面白そう。
わたしはそう思った。
滝行により異なる世界が拓けそれが幸福感をもたらすのだとすればやってみる価値はありそうだ。
男性は言った。
滝は気の流れそのもので、そこにはありとあらゆるものが乗っている。
霊的なものや邪念といったものが混合されて激流となって降りかかってくる。
受ける側の心が弱ければ、流れ落ちてくる邪念をだけ吸い寄せることになり心身に不調を来たしかねない。
邪念を寄せ付けず跳ね返し善き霊性をのみ吸収すれば精神的な高みに至ることができる。
だからまさに修行であって、レジャーとは一線を画すだろう。
それに流木や生き物などが激流とともに落下してくるかもしれないから危険とも隣り合わせである。
帰途、電車に揺られながらふと思った。
美空ひばりは川の流れのようにと歌ったが、生きることは滝行のようなものとも言えるかもしれない。
激流かどうかはさておき、様々なことがこの身に押し寄せてくる。
善きものを取り入れ悪しきものを跳ね返し、不断にそれを続けていく。
そして流木が頭上に落ちてくれば一巻の終わり。
生きることの本質を荒々しい仕方ではあっても手っ取り早く感得できるから滝行は古来より行われその歴史が連綿と続いているのだろう。
実際の滝行と異なり、今の日本で暮らすことは温水プールで戯れるようなもの。
滝行の話が良いメタファーとなって、生きることの一面が理解でき同時、恵まれた今をしみじみと実感することになった。
まるで滝に打たれたかのよう。
小さな透徹感と充溢感に包まれた。



