KORANIKATARU

子らに語る時々日記

50歳がひとつの終焉

節目というよりひとつの終焉。

男子50歳はそういった地点だと感じる。


そこを過ぎるともう何も身につかない。

精進したところで押し寄せる若手に伍するレベルまでには至らない。


それまでに培って身に宿った「実」以外、頼りになるものは何もない。


もはや、力業では張り合えない。

その「実」だけが老身を支える杖となり足元を照らす。


お役御免の年齢は60。

世間ではそう決まっているが、実はそのはるか前から閉店準備を強いられる。


50を過ぎれば賃金は頭打ちとなり役職を解かれ閑職に追いやられ、そのうち子会社に出向せよとの辞令がくだる。


一線から退いて、環境が一気に暮色に染まって気も塞ぐ。

が、「実」が具わっていれば、セットプレーでは見せ場を作れるかもしれず、それが戦局を左右するとなれば優位さは揺らがない。


であってもいよいよ60歳になれば終焉の終焉。

もはや一緒に走る歳ではなく、でしゃばれば周囲が惑う。


そうなれば、チューブから中身を絞り出すようにして前線に送る「実」をなんとか捻出しなければならないといったことになる。


その一方、終焉の間隔は狭まっていく。

百まで生きるとすれば、丸腰となってから涯ないほどの長丁場となる。

気も遠くなるというようなものだろう。


百年の計と言えばかつて国家のことを指したが、いまや人についての話となった。


50を過ぎれば土壌が枯れる。

だから、早めにかかるに越したことはない。

他人任せだとままならない。


早々に始めて50までは徹底的に「実」の仕込みに注力する。

実を結ぶかどうかは先の話で、結実は遅めくらいがちょうどいい。


今後はそんなペース配分が定型になっていくのではないだろうか。

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2021年8月24日 朝食