日記には日付がある。
だからなんとか前後が分かる。
もし日付を伏せてシャッフルされたら時系列に並べ直すことは難しい。
意識のなか一年前も五年前も「ついこの間」という感覚のもと、同じカテゴリーに属している。
ここに不思議を感じる。
いま、自身の足元を見つめてみる。
課題は山積し、一日一日を過ごすのにも精一杯。
つまり時間は重くて長く、そこを歩む道のりは実に険しい。
五年前と言えば、ざっと二千日くらい前のことになる。
道のりで言えば気も遠くなるくらいの距離である。
それなのに記憶のなかでは遠近差がない。
一体どういうことなのだろう。
この途方もない距離が「ついこの間」になってしまうのが不思議でならない。
で、もしかして、と思うのだった。
時間というのは、あってないようなもの、なのかもしれない。
時計はまわってカレンダーはめくられる。
が、それは、身体が空間に属するのと同様、あくまで意識が棲息するために作り出された方便で、仮構であるから実は意識も時間も存在しない、ということなのではないだろうか。
例えば、甘いも辛いも嬉しいも悲しいも手にとって見せられるようなものではない。
時間も同じく観念で、その長い短いを実物として捉えることはできない。
つまり、実体としては空っぽ。
だから時間をこそ「空」間といった方がいいのかもしれない。
やはりどうやら、時間はあってないようなもの。
その証拠、死ねば意識とともに時間も消える。
無という元の鞘においては時間も無。
長いも短いもなく、その片鱗を現し世においてチラと見せたとき、「あっという間」という現象が起こるのだろう。
歳を取れば取るほど、あっという間と感じる頻度が多いのは、だからある種の予感と言えるのかもしれない。