朝、走った後で京都へと連れられた。
買った服の色交換の他、食器や調理器具など調達の必要なものがあり、それに中華の店も予約しているのだという。
ちょうど祇園祭の真っ最中で、この日、三年ぶりに山鉾巡行が行われる。
都大路を飾って23基の山鉾が行脚するのであるから、集まる人出は相当なものだろう。
その様子を思い浮かべただけで気分が滅入るが、女房が行くというのであるから付き従うより他にない。
電車を乗り継ぎ人混みを縫って歩いて高島屋にたどり着くだけで一仕事であった。
そこで用事が片付き、ちょうど昼時。
家内がかき氷を食べるというからお供した。
夕飯に備え、なるべくお腹は空にしておかねばならない。
そんなときの空腹しのぎにかき氷は格好であった。
嵩があるから食べた気になり、取り込まれるや否やすぐ溶ける。
お腹はほとんど空のまま、続いては錦市場へと繰り出した。
まさに掘り出し物、陶あんにて京焼のいい品との出合いがあり、有次では料理の先生に勧められた型抜など各種選んだ。
で、こういった買い物には時間がかかり、ほんとうの意味で足が棒のようになっていくのであった。
お腹は空で足が棒。
そして、夕飯の時間まであと一時間以上も残されていたから、苦行と言えた。
お茶でもして時間を過ごそうと商店街を歩き、ちょうど通りかかった店先に待ち時間ゼロとの表示があって夫婦の目がそこにとまった。
場所は寺町通り、店名は庵。
まさに地獄に仏、渡りに船であった。
迷うことなく店に入って、二人揃って足つぼリフレを受けることにした。
足は第二の心臓。
足が手当てされると心が癒える。
そう痛感した。
女性セラピストの指先が足つぼの各所に「入って」そのたび何かが全身を貫いた。
ときに手が優しくふくらはぎを這って、膝裏に達する。
一体、そこに何があるのだろう。
押されて、内にせり上がるのは痛みなのか心地よさなのか。
いずれにせよ、とろけてしびれて、ああもうどうにでもなれと思ったのであるから、まさにこれを忘我というのだろう。
これで夫婦して蘇った。
胃もぐるぐると活性化され、夕飯を迎え撃つ準備も整った。
夕刻にかけ往来の混雑の度は増すばかりだった。
昼より更に難度の上がった人混みを縫って、家内とともに軽やか弾むステップで祇園へと足を運んだ。
夕飯の店は一僖。
八坂神社にほど近い場所にある。
先日、武庫之荘にある焼鳥谷口を訪れた際、カウンターの隣に座る三人連れに家内が声をかけた。
どこかの料理人に違いないとの家内の読みどおり、人気店の店主一行であった。
そこで名刺をもらい、ようやくこの日、訪れることがかなったのだった。
で、これがわたしたちの中華料理観を大きく変えた。
洋風料理の趣きもあって、かつ、やはり中華の王道であり、頼んだすべての品が感嘆の域にあった。
後味までいいから、素材や味付けへのこだわりがほの見えて、そこにも店主の実力のほどが端的に表れていると言えた。
いろいろとおいしい中華を食べてきたが、この夜、わたしたちのなか、最も美味しい中華の座に一僖が君臨することになった。
足つぼリフレを受け、おいしいものを食べる。
これを幸福と言い、京阪電車を使っての帰途、良き余韻によって幸福感が更にますます満ち満ちた。