これから夜へと差し掛かる時刻。
ジムを終えて飲まずに過ごし実に快適。
自室にて新聞などめくりながらパソコンの画面で過去のNHKスペシャルを再生させた。
ふとクリックしたタイトルが『老人漂流社会 終の住処はどこに』だった。
まもなく視線は新聞から画面へと釘付けになった。
やはりわたしは日々浮かれて暮らしている。
世の現実は容赦なく厳しいもので、「他人事ではないかもしれない」そう思うから伝えられる様々な境遇をこの目にして胸が締め付けられた。
我が身に置き換えて想像してみた。
人生の最終盤、老いてカラダにガタがきて社会的には用済みの存在となる。
もちろん家庭においても油断はできず、用済みだけならまだしも処置に困るお荷物といった扱いになることもあり得るだろう。
自虐的に言うなら、廃品のようなものである。
そうではないといくら往年の思い出にすがって主張したところで、周囲みながそう思えばそれが揺るぎない事実となっていく。
つまり、わたしを必要とする他者を失った段階で尊厳は保ちようがなく、もはや自己を肯定する術など何もないということである。
であれば廃品らしく手っ取り早く回収されたいとなるのが人情だろうが、天国からのお迎え便はそう都合よくはやってこない。
屈辱と無力感に苛まれ、いったいどれだけの歳月を過ごさねばならないのだろう。
その苦しさを思うといまから気が遠くなる。
だから何事も準備が肝心。
顔が浮かぶのは33期の面々だった。
周囲から用済みとされようが、わたしたちは互いの輝かしい若き頃について老いさらばえても記憶に鮮明にとどめている。
その仕事の足跡と開花させたそれなりの才能についても熟知している。
だからわたしたちは互いに互いの「必要な他者」となることができ、だからまるで身内同士で自画自賛するみたいに褒め称え合うといったこともできるだろう。
老いて独りであれば、自信に満ちていたはずの自画像が揺らぐ。
実のところこれは結構辛いことであるはずで、やはり歳を取れば一人でいて楽しいはずがないのである。
だから、老いてもバスを借り切って皆で南部へ行けるよういまから準備しておこう。
想像してみる。
老いて独り。
まぶたの裏で南部で遊ぶ図を思い描くより、老いても皆で遊ぶ方が絶対いい。
ソフトボールは無理にせよ、ボーイズトークに花咲かせるくらいのことはできるだろう。