結局のところ時の流れに撹拌されて、家内の交友関係は至極シンプルに、均一とでもいうべき形へと落ち着いていった。
ちょっと軽目の、浮きに浮いたようなママ友らはいつの間にかいなくなった。
息子たちが中学、高校と経る過程で、周囲に残ったのは地に足のついた良識派とでも言うべき方々だった。
なるほど、人間関係についてもまるで物理現象みたいに、重さは重さとそして軽さは軽さと結びつき、まったく別のグループを形成することになるのだった。
いいように言えば思慮深く、だからそんな前者のグループの方が心落ち着くという人もいれば、しかし地味目で真面目な堅物もどきと一緒にいるなど堅苦しくて取っ付き難く、年の割には幼稚にはしゃいでちょっとバカかもしれないと思えても気楽に付き合える方が断然いいと後者に馴染んでいくような人もいて、いきさつはどうあれ大体においてグループはこの二系統へと収斂されていく。
かつて家内を当てこすった人物と家内は当然、その構図で言えば互い相容れない対照的な立ち位置にあった。
そして時を追うごと立場が乖離し、だからますます疎遠になっていくのも致し方のない話であった。
長期スパンで物事に取り組み何かを高めること、強めること、より良くなることを志向する者と、楽しいこと、緩んで楽なこと、気の紛れることといったその場限りの憩いに関心が向く者とではその性質が真逆と言ってもいいだろう。
だからもともとは同じ場所にいたはずが、いつしか、ワニが大きく口を開いた上顎と下顎みたいに、もはや属する世界は全く異なるものになってしまったかのように見える。
じゃんけんで例えれば、グーとパー。
じゃんけんほい、と手を出した瞬間は、パーが勝ったと誰もが思う。
しかし、この現実の世界において、固く握り締めた拳がひらひらと舞う手のひらに負けることなどあり得ないのだった。
そして、グーはグーと鍛え合って互いを高め、パーはパーと集ってパーの度を増す。
そんな果てにグーとパーが対面しても、もはや語り合うことなど何も見つからないだろう。