夕刻、プールにほとんど人影はなかった。
カラダを水にひたし、ゆっくりとしたペースで泳ぎ始めた。
陸地で凝り固まった自意識が緩んで薄まり水中に漂い始めた。
息を継ぐたび、窓の外の景色がぼんやりと視界に入る。
空は分厚い雲に覆われ雨脚は強い。
ついさっきまで身を置いていた日常の世界が遠い場所にあるように感じられ、なにか昔の思い出のようにいろいろな想念が浮かんでは消えていった。
先日、二男がしていた話が頭に浮かんだ。
兄が慶応法で父が早稲田理工で自分は早稲田法だといった話を大学の先輩にすると、すごいねと驚かれた。
泳ぎながら笑って思う。
関西だとそうは行かない。
ちょっと残念な結果だと気の毒がられるのがオチだろう。
実際、長男は高校のクラスメイトに半ば冗談にせよ「おい、Fラン」とからかわれ、二男についてはそのママ友が悪気はないにせよコスパが悪いんじゃないかと言って心配してくれた。
聞こえてくるそんな話が実際の関西の方々の感覚を如実に物語っている。
が、東京でならまあ及第点というところだろうか。
このように身を置く場所によって捉え方が異なるから、それらをもとに形成される「インナー世間」もまったく別種のものとなって、時に相容れない。
次第、水にカラダが馴染んで泳ぎが快調さを増していった。
あたたかな水の世界に包容されて心地よく、やはりと思う。
学歴程度のことであれば大した話ではないが、「インナー世間」が閉じて澱めば、カルトや極右といった過激思想を生む土壌となりかねず、そうなれば人は人とうそぶいて済む話ではなくなってくる。
だからこそ意識的に「インナー世間」が偏狭なものとならぬよう、親は子に様々な考えに触れさせることが大事だと言えるだろう。
物心ついた頃にどこでどのように染められたとしても、その世界観を昇華させ続けようとの意思があれば、過去の「インナー世間」に足を止められ自由をもぎ取られるといったことなど起こり得ない。
いつまでも泳いでいられる。
それくらい快調であったが、やがてだんだん思うようにカラダが進まなくなってきた。
泳ぎ始めて40分が経過しようとしていた。
今日はこれくらいにしといたろ。
水中でそうつぶやいたときには、「インナー世間」のことなど意識の片隅にも存在しなかった。
わたしは丘にあがって、筋トレのためマシンエリアに移動した。
余計なものが削ぎ落とされてまさにマインドフルネス。
いま、ここに、混じりっけのないわたしだけが存在していた。