感覚が鈍いから、暮らしの中心がすっかり変わってしまったことにずいぶん月日が経ってから気がついた。
息子たちが家にいたとき、家内は朝から晩まで食事作りに勤しんで、だから間違いなく家が暮らしの中心の場であった。
息子たちが東京で暮らすようになっても、家という舞台はそのままであちこちに鮮明な思い出が残っている。
だから、わたしは家が中心のまま不動だと思い込んでいた。
しかしいま、家族4人が家で集まることはほぼ皆無で、わたしも家内もあちこち出歩くことが多いから、家が中心であるどころか空洞化しつつあるといっても過言ではない。
家内など鳥かごから解き放たれたようなものであり、毎日ヨガとジムと英会話に励み、数々の料理教室に通い、アンチエイジングにも取り組み着飾って、さあこれからが人生といった風に張り切っている。
「子どもたちのため」という幸福の最上位が「自分のため」へと置き換わり、引き続き最上位に忠実という意味で、家内は「ええとこ取りの人生」を地で行っているといっていいだろう。
それに比べてわたしなど、どこにボールがあるのかすら分からずウロウロするような鈍臭さで変化に取り残され、うすらぼんやり過ごして今に至った。
いつだって家内からワンテンポ遅れてしまうのであるが、子らが巣立ったのであるから、わたしだって人生はこれからと意気込んでいいのだった。
さあ、何からはじめよう。
手始めに友だちとの飲み会を盛んにし、彼らの「今」を参照するのがいいだろう。
そうすればなにか有益なヒントが掴めるに違いない。
「自分のため」を追求するのに、まだまだたっぷり時間は残されている。