信号は赤だった。
クルマのやって来る気配はない。
隣には信号を待つ母子がいた。
男の子は3〜4歳といったところだろうか。
若いママはスマホに見入っていた。
左右の安全を確認し赤であったがわたしは信号を渡り始めた。
と、若いママが叫び声をあげた。
わたしを真似て男の子が横断歩道を渡り始めていたのだった。
若いママは大慌てで子の手を引っ張り歩道側に引き戻し、そして強い目線でわたしを睨んだ。
幼い子に対する教育的な配慮をわたしは欠いていた。
それが原因で一歩間違えれば、取り返しのつかない事態を招き寄せかねなかった。
若いママがわたしに対し怒るのは当然のことだった。
しかし何事もなくほんとうによかった。
呵責の念を感じつつ、わたしはほっと安堵した。
帰宅してそんな話をすると家内は言った。
そのママにも問題があるのでは。
我が子と一緒にいるのであれば、子に神経を集中するのが当然ではないだろうか。
なるほど。
家内は人一倍の心配性である。
そしてその心配性が子どもたちを守ってきた。
子どもと信号待ちをするとき、家内について言えばスマホに目を落としたりなどする訳がなかった。
信号待ちをする家内と息子の姿が目に浮かぶ。
息子の手をしっかりと握り、家内は一心に息子に語りかけている。
あんな話やこんな話。
家内の二万語は尽きることがない。
そして空いた手で荷物を提げているからスマホの出る幕などどこにもない。
もし信号を無視するわたしのような輩がいれば、ほら、と息子に注意を促したことだろう。
赤は止まれ、そんなことも分からない大人になっちゃダメだよ。
昨今、誰もがスマホに目を落とす。
画面の向こうの自分や他人のことで頭がいっぱいで、常習者になるとスマホ画面が世界の主となって我が子への関心さえ薄れてしまう。
子は母の背をみて育つ。
時は回帰し、いずれ再び母子で信号を待つ機会が訪れる。
そのときはともにスマホに目を落としているから、信号を無視するおじさんがいても視界の外。
ヒヤリとするようなことは起こり得ず、安全なことこの上ない。
そして引き続き母子の間に会話はない。
そういう意味では肝が冷えることに変わりがない。