コロナ禍において課せられていた様々な制約が取り払われ、やっとのこと気軽に海外へと出かけることができるようになった。
手始めにこの7月に夫婦でソウルを訪れた。
家内の妹分と4年ぶりに再会し、彼女が『ラウル・デュフィ展』の翻訳を手掛けたとあって、フランス語も韓国語もチンプンカンプンであったが案内してもらった。
明るく賑やか、なんて陽気で楽しい絵画なのだろう。
そんな印象を持ちながら年代順に見て回った。
しかし晩年以降、華やかな色調が影を潜め、彼の絵は暗く単調なものへと様変わりしていった。
その色彩の変遷に人生の重みのようなものを感じたのであったが、日本に戻ってからもときおりその激烈な変わりようについて考えてしまう。
子どもは子どもらしくただのんきに明るい。
そんな時期を経て青春時代に突入し、藤圭子の歌さながら、わたしの人生は暗かった。
いま思えばノイローゼ寸前とでもいったレベルであったように思う。
ああでもないこうでもないとどうでもいいようなことに惑って迷い、出口の見えないトンネルのなかを堂々巡りしていたようなものであるから、これはもう暗いという以外に表現のしようがない。
それでもなんとか日常と折り合いをつけ日々を過ごし、いつしか大きな変化が訪れた。
その前後で人生の色合いが全く異なる。
わたしの場合、子を授かって光が差した。
男の子がいると家が光り輝く。
そう言われるが、わたしまで明るくなった。
そして立て続けにまた男の子を授かって、光が多重で照射され暗かった世界が隈なく光って輝いた。
そこまで明るくなって吹っ切れた。
吹っ切れついでに踏ん切って勤め人としての人生に終止符を打ち、わたしは自営の者となった。
もちろん駆け出し当初はたいへんで、そこだけを取り上げれば暗く重いようなものであるが、明暗のコントラスト効果で「明」はより明るく映えて、つられて「暗」にもそこそこの明るさが差したから、要は明るいトーンで満たされて、なんであれわたしは幸福だったと言えるだろう。
それであっという間に時間が過ぎて、子どもたちが巣立った後も光が途絶えることなく日常は依然として明るく、週末になればもっと明るく、視覚化すれば最盛期のラウル・デュフィの絵画みたいな毎日だと言って過言ではないかもしれない。
しかし、いつの日か。
鮮やか彩られるこの毎日も、いつかはくすんだ色合いへと収束していくのだろう。
その不可避を思うと幾分かは厳粛な気持ちになるが、それは誰にとっても同じこと。
だからこそ、そのときはそのときのこと。
いまは色々ほとばしるのが正しい、ということになる。
まもなく週末。
さあ、女房と二人、この土日は何をして過ごそうか。