いい夫婦の日、わたしは朝から事務所にこもって夕刻までデスクワークに勤しみ、仕事後はジムへと赴いた。
一方の家内はヨガのレッスンを2本受け、梅田にて美容のケアを受けジム活を行った。
帰宅すると一足先に家に戻った家内が野菜だけの食事を用意してくれていた。
タッパに入ったサラダと同じくタッパに入った野菜の酢漬けを全部食べるよう言われた。
いくら野菜不足であるにせよ一度に食べるには量が多すぎる。
ところが、残すつもりで口に入れ始めると意外においしくノンアルを飲みつつわたしはパクついた。
その間、家内は週末に着る服をあれこれコーディネートしてわたしに見せた。
めっちゃ似合ってる、上品、かわいい、などわたしは率直に意見を述べた。
野菜だけではしかし物足りなかった。
夕飯がヘルシー過ぎる場合に備え、コンビニ食をかばんに忍ばせてあってほんとうに良かった。
仕事の残りを片付けると言ってわたしは自室に引き上げ、コンビニ食にて足らず分を埋め合わせた。
その際、朝刊に目を通した。
天声人語の話題はいい夫婦についてであった。
西野理子さん編著の『夫婦の関係はどう変わっていくのか』について触れられていて、それによれば夫婦の満足度は結婚年数を経るにしたがって下がる一方なのだという。
周辺夫婦のことを思い浮かべ、まあそんなものだろうと実感にも合致する話と思えた。
たいていの夫婦の関係は、ズタズタに引き裂かれ破綻している。
そう見て当たらずとも遠からずだろう。
つまり先人が言う通り、結婚は人生の墓場なのだった。
墓場が相場と思えば、うちはまあ比較的仲良く過ごせている方かもしれない。
一緒に食事するし買い物に出かけるし映画も見るし旅行もする。
喧嘩もするがわたしがすぐに謝るから深刻化するには及ばない。
それに毎度おおきに、料理を除き家事全般お任せあれである。
そのように一緒に暮らし、世話焼き女房がたまに留守だと羽を伸ばせて嬉しいが、ずっといないとなるとちょっとは寂しい。
そのようなことを思いながら、わたしはその核心に気がついた。
わたしたち夫婦は共通の息子二人によってダブルで結束を強められた運命共同体のようなものと言えた。
他愛のないことなどどうでもいいと言ったレベルで絶対的なことであり、そんな人間関係に比類するようなものは他に存在せず、そういう意味でいいの悪いのといった尺度で語るなどおよそ不適当な話なのだった。
夫婦となって24年が経過した。
全編のうち半分が過ぎちょうど中間地点に差し掛かったというところだろうか。
そしていずれ結末が訪れる。
その結末は回避しようのないものである。
それを思えばただただ厳粛な思いとなるばかりである。