今週は傘の手放せない日が続いた。
しかしそれで困ることは何もない。
ジムは空いていて快適であるし、飛散しはじめた花粉の勢いを雨が押し留め、漏れ聞こえてくる雨音が小気味よくすんなり快眠へと導かれるから、言う事無しである。
前夜女房と飲んだから、この夜はお酒を飲まずノンアルで過ごした。
だからなおさら意識が透き通るようであって心地よさが増した。
先日目にした新聞記事によれば、日本ではお酒離れが徐々に進んでいま5,000万人もの人がお酒を飲まないのだという。
少しでも飲めば高血圧症を誘発し、大腸がんなど発がんリスクも高まる。
そんな話も含めて聞けば、お酒を飲むほうがどうかしている、というものだろう。
飲んだり飲まなかったり。
日を置けばまたグラスを手にするのだろうから、今後は飲まないとの方針をはっきりと決めた方がいいのかもしれない。
寝入りばなにそんなことをうすらぼんやり考えつつ、不意な流れで、さてわたしは息子に何が残せるのだろう、との思いがよぎった。
彼らが一生遊んで暮らせるような財物を残すなどわたしの器量ではとても叶わない。
申し訳ないが、それなりに頑張って働いてもらうしかないだろう。
頭を巡らせてたどりつくのは、やはり仕事で、これなら彼らにしっかりと残すことはできそうである。
この先、勤め人であっても兼業や副業などが当たり前の社会になることだろう。
そうであれば、身体ひとつ机ひとつあればできるコンパクトな家業が邪魔になるはずもない。
いまわたしが携わる仕事をピカピカに磨き上げ、それを息子に託す。
そんなイメージを思い浮かべれば、時折わたしの中で巻き起こる「もう楽をすればいいのでは論争」など出る幕もない。
息子に引き継ぐと思えばその日まで、それがたとえわたしにとって最期の一日であったとしても、嬉々として情熱を傾けることができる、そんな気がする。
楽をするといった浮かれた気持ちなどその真剣さの中に迷い込みようがない。
そうそう最期の最期まで。
自分の役割がしかと見えたか見えないかというところで、いつしかわたしは安眠の懐の中へと包み込まれていった。