午前中に少し時間ができたので実家に立ち寄った。
このところ顔を出す回数がめっきり減った。
それでつい「忙しくて」と言い訳めいた話をして、そんなわたしに父は決まって言うのだった。
もう食べていけるんやからゆっくりしたらええやろ。
そうそう。
言われていつも「ゆっくりと過ごす毎日」について思い浮かべる。
それも悪くない。
そして毎回のこと。
即座、思い直すのだった。
ゆっくりとして、そんな時間が降り積もり、それが一体なんだというのだろう。
せめて半々。
オンで気を詰め、オフで気を解き放つ。
それでいいのではないか。
実家から仕事先へと移動し、この日は新規のお客さんらに向けての業務説明があった。
巨大な建物のなかの一室、わたしはひとり控室で出番を待った。
急な要請であったから資料など何も用意しておらず、見てくださいと誘導するHPも依然としてできていなかった。
この身ひとつが頼りという、もしかしたら実に心許ない状況で、わたしはただただ喋って自らを説明するほかなかった。
そしてこの期に及んで「いったいわたしは何を話すのだろう」と自らの内側を覗き込むがしかし、特にこれといって話の筋などまったく何も用意もされていないのだった。
だから、じっとひとり椅子に腰掛けてはいても、胸中は「ゆっくり」の対極にあった。
ひりひりとするような尖った時間のなかを手に汗握るような心境で過ごし、いよいよ中へと招き入れられたときには、腹がすわってほっとした。
と、あら不思議。
これをこそ水を得た魚あるいは酸素を得た炎とでも言うのだろう。
お客さんを眼前にした途端、さっきまでの寡黙はどこへやら。
話すことが次から次へと浮かび、ひとりでに口が開いてわたしは明るく楽しく、まるで歌うかのように饒舌をふるった。
まさに何かが憑依した。
そうとしか思えなかった。
予定の30分を大幅に過ぎ、60分ほど話したところで「では、そろそろ」とストップが入った。
出番を終えての帰途、夕刻の街を覆う冷気がとても心地よく感じられた。
そして胸には「自らと出会った」という沁み渡るような喜びが満ち溢れていた。
ゆっくりとであればそんな未知なる自分と相まみえることなどあり得ない。
やはりどうやら生きる醍醐味はゆっくりとは反対の側にある。
まもなく週末。
少し休んでまた再度、忙しい毎日へと漕ぎ出していくことになる。