KORANIKATARU

子らに語る時々日記

言葉に重みがあることを知る

QBハウスをたまに利用する。
丸坊主となって以来、髪形は0.5mm 、0.8mm寒ければ1mm の三通りしかない。
どこで刈ろうが仕上がりに大差ない。
顔剃りや頭皮マッサージ目当てに腕のいい理髪店を訪れることもあるけれど、普段は通りかかったQBハウスで十分事足りる。

かつては髪形をそこそこ気にするタチであった。
先日も書いたように親子三代散髪好きである。
襟足がさっぱりしていないと落ち着かない。
サイドの毛がぼさっと立ち始めると自分が不細工に見えて仕方なくなってくる。
それで少なくとも三週に一度は散髪屋に通った。

いまではそのような苛立ちからはすっかり解放されたが、二週に一度は雑草除去みたいに縦横くま無く刈り取ってもらう。
月日が経つのは早いもので、そのようになってかれこれ七、八年となる。

不思議な事に髪形や体型は変わっても根本的な性格は変わらないようだ。
twitterをやり始め当を得ない内容について家内に叱られると、遠い中高時代、授業中に喋りまくって隣席のコトリちゃんに舌打ちされたことを懐かしく思い出してしまう。
あの当時と何も変わっていない。

飲めば裸になる輩がいるように、私には相手があると思いついた事をついつい何でも喋ってしまうという傾向が生来備わっている。
人間というものは、喉元まで上がってきた言葉を吟味斟酌してよくよく考えてから発するものであると後に学んで、ずいぶん口数は減ったが、twitterという違う出口が現れればそこを辿るだけのことであった。

あの当時の友人らがfacebook上に現れ、退屈な授業中にも似た閉塞気味の日々に、小窓が開きサラサラと風がそよぐ。
twitterを介せば、友人らだけに限らず、まだ見ぬ知己を得ることもできる。
これは何と僥倖なことだろう。
自らの根っからの性質はここでこそ開花し成就するではないか。

しかし、はしゃぎ勤しんだのも束の間、約一年六ヶ月程度のこと、かつて教室から実社会に出る過程で学び身に付けた作法を、ネットにおいても同様に感得することとなったのであった。
facebookでの友人知人との交流だけ残しtwittertumblrはきれいさっぱりやめることにした。

言葉というものは使い分ける必要がある。
まず一つ、現実の処世を円滑にするための言葉がある。
社会という荒波を渡るための臨戦の言葉である。
当たり障りない、毒にもクスリにもならない基本話法に始まり、意を達すため、あれやこれやのテクニックを戦略的に駆使し優位を形成するための言葉だ。
相手を油断させるという目的以外で隙を見せてはならない。
発話について装いと抑制が同時に要求され、相手の出方と数手先の見通しを常に考える必要がある。

そしてもう一つ、内面の吐露といった類の言葉がある。
肝に銘じなければならないが、どのような場合であれ基本姿勢は黙して語らずである。
言わねば伝わらぬという無骨な風土ではなく、忖度や斟酌、以心伝心といった深みある言葉のある国である。
あれこれだらしなく喋っては言葉に重みがなくなり、時に害悪にすらなってしまう。
口は災いの元、もの言えばくちびる寒し、というのはここらの不作法に端を発する悩ましい状態を指す。

しかしそうはいっても、生身の人間には鎧を脱ぎほっと安堵の息をつく時間も大切だ。
着流しで気軽に話ができる場はあった方がいい。
自由な情報の交易によりインスパイアされることもあるし認知のゆがみがただされることもある。
なにより、肯定的に受け入れられる場での肩ひじ張らない会話はそれ自体が楽しいことである。

時と場をわきまえ、よそ行きの身だしなみでの言葉遣いに徹する場合もあれば、ボリュームをぐーんと絞って口を閉ざす場合もあり、風呂で裸の付き合い、高じて裸踊りするみたいな言葉のやりとりもあると区別し、混同しないようにすることである。
見知らぬ人が往来する場で窓全開で裸踊りするのは、危機管理としては褒められた事ではない。

そして、大事な言葉は取っておくことだ。
だれかれ構わず言うものではない。
言った数だけ値打ちが下がる。
黙っておくことである。
人生に何度か数える程度、そういった言葉を発する場面があるのならばあるだろう。