駅前に散髪屋があって理容師が三人いる。
店長はまだ若いが他はおじさんが二人。
最初にわたしが通いはじめ、いつしか子らも常連になった。
彼らがまだ幼児という歳の頃のことであった。
彼らなりに自意識芽生え、芦屋の美容室でカットしてもらうといった小洒落た時期もいっときあったが、やはり血は争えず結局はまた駅前の散髪屋に回帰することになった。
馬が合うのだろう、子らは店長を指名する。
他の理容師に任せることはせず、混んでいても店長の手が空くのを待つ。
仕上がる髪型は、別段どうってことのない等し並み。
すっきりしてさえいればそれでいい。
その程度のこだわりしかないようなので、男らしくて清々しい。
鏡を前にあれこれ髪をいじってああでもないこうでもないと延々やるような男でなくて一安心というところである。
同じ年の頃のわたしと異なるのは、コンプレックスの度合いだろうか。
氏によるのか育ちによるのか自己を卑下するところ満載の思春期を過ごしたわたしと大違い。
つまらないことを羨ましがったり、どうでもいいことでやっかんだりといったややこしいプロセスと彼らは無縁のように見える。
だから、虚勢張ったり虚言述べたり虚飾で身を繕ったりするといった補償行為が必要となることがなく、日常のサイズと自身のリアルが合致していて等身大で何らてらうことがない。
駅前の馴染みの散髪屋で髪を切り以て足れりとする。
そんな簡潔明瞭こそが男前であるための本質であるような気がする。