KORANIKATARU

子らに語る時々日記

併存する諸説、しない説

先日顧問先の社長から疑問を投げかけられた。
中学受験などで子供の頃から勉強ばかりさせることは本当にいいことなのか。
成長過程の子供には勉強の負荷はほどほどにし、のびのびと色々なことに触れさせる方がいいのではないか。

我が家に顔出す子供達の顔を思い浮かべる。
塾や学校など勉強がもたらす縁により交流が生まれた友達たちである。
いわゆる「かしこ」ばかりだ。

その社長が言う。
勉強も大事だがそればかりに過剰適応すると、逆に弊害が大きいのではないだろうか。
思考が画一的になって応用がきかず発想力が枯れる。
勉強以外についての経験を欠き視野も狭く、親や先生に従順で批判精神がなく、行き着く先は長いものに巻かれる意気消沈したような小粒の小役人。
そういった集団は果たして日本にとって有意な人材と呼ぶに値するのだろうか。

一人一人の具体的な顔を思い浮かべる。
社長が言うような小役人像と重なる要素など微塵も感じられない。
彼らの仲間達が遠足で書いた作文も読ませてもらったばかりだった。

中1とは思えないほどに高度な概念を多彩な言葉を駆使して表現できている。
周囲を見渡す客観的な視野のもと、五感の知覚全てが若々しく外に開き、対象へ感情移入するプロセスと対象に対する価値評価が個性的な感性と言葉遣いと巧みな構成で描かれる。
相当な知能だと舌を巻く。
私が最近目にした新卒新入社員が書く文章を圧倒している。
この様子だと国語力以外でも凌駕するのかもしれない。

それに、社長の説が妥当なら、私の友人らもしょぼくれていておかしくないはずだが、そんな男は一人もいない。
どこへ出ても胸はってその果敢な仕事ぶりと能力を語れる者たちだ。

具体的な反例がいくつもある。
社長の危惧は取り越し苦労のようだ。
そもそも「受験勉強」と「有意な人材論」を対立概念として捉える前提自体に誤謬があるのだろう。
覚せい剤で人間が破壊されるように、受験勉強が人的な可能性を根絶やしにしてしまうという、印象論の域で語られる俗説と言えそうだ。

しかし、どんな話であれ、俗説だからといって、または支持する人が少ない局地的な話だからといって、完璧に的外れな話と断ずることはできない。
社長が言うように、受験勉強の結果そのような末路をたどる人間だっているかもしれない。
状況によっては私たち全てが出来損ないで、挙げた反例の方こそが印象論だと腹抱えて笑われるケースも有り得るのである。

絶対的な正しさなど存在しない。
そのように、諸説は併存し、領土の大小あれど補完し合っている。

そして、彼らの友人の話を思い出す。
つい先だっての受験のこと。
受験戦線の前半で合格を得られず、失意どん底の心境で後半戦にもつれ込んでいた。

このようなことは誰に起っても不思議ではなく、その沈痛さは当事者として胸締めつけられるほどに理解できる。
本当に厳しい精神状態であったことだろう。

本当の意味での背水の陣。
後期日程の試験に臨む。
そこで塾の友人を見かけた。

既に彼は受験の前半戦それも初日に第一志望への合格を果たしているはずだった。
塾でもエース級の実力の持ち主である。
彼も受けるのか。
受験のプレッシャーがいや増しに増す。

もう合格されましたよね、何でここを受験してるんですか、と付き添いの親がエースの母親に尋ねる。

難詰されたと思ったのか、晴れて6冠達成のエース母がぴしゃりと答える。
「何かいけないんですか、ちゃんとうちもここの受験料払ってるんですよ」
返す言葉が見つからない。

信じ難い話である。
我が家では志望校への合格が決まった後、その後のすべての受験を取りやめた。
普通まともな見識ならそうするだろうと思う。

自分の行先が決まって後で、行く気もない学校の入試にちょっかい出すなど狂気の沙汰だ。
悲痛に合否を分け合う仲間の中に用も済んだのに分け入って、その結果に影響及ぼす恐れ多さと卑劣さに思いが至らないのだろうか。

親の言葉もこれ極まれりである。
「金払ってる」
まるで弱者を手込めにする破廉恥で恥知らずなオッサンの言動ではないか。
「こっちは金払ってるんだ、大人しくしろ」

親の不見識は犬も喰わない。
せめてそのエースが長じてまともな倫理観を身に付けることを願うばかりだ。

諸説は併存する。
しかし、なかには決して組する訳にはいかない、猥褻なほどに利己主義極まる不見識まといテンとして恥じない輩もいる、ということは忘れない方がいい。
あんた自分の言っていることが分かってるのか、と真正面対峙せねばならないこともあるだろう。
 
先日、祖母の話を書いた。
祖母はどこまでも謙虚で慈悲深かった。
祖母は神仏に見守られ、神仏とともにあった。
神社であれお寺であれ、手は前で組むように揃えてお辞儀し、手を合わせてさらに深々と頭を下げる。

人に良くしようとする善良な精神であった。
私も神社やお寺でたまに手を合わす。
そして、祖母を思い出し、そのようであった善良な精神を思い出し、深々と頭を下げる。