KORANIKATARU

子らに語る時々日記

本読み兄弟タローとジロー

18時30分、ちょうど日の入りの刻、東経135度22分北緯34度44分地点を二宮金太郎少年が通過した。
たまたま近くを通りかかった家内は、本を読みながら家に向かって歩く長男に視線を奪われる。
金太郎少年は間近に立つ母親に全く気付かない。

通学路ではずっと本を読む。
それが高じて歩きながらでも読む。
長男だけでない、二宮金次郎こと二男も同じ。
どこでも本を読む。
風呂でも読むし、トイレでも読む。
寝床のあちこちにも本が潜んで待ちかまえている。

人間ならではという行為を挙げればキリがないけれど、本を読む、というのは、その最たるものだろう。
本を読むサルをたまに電車で見かける、と君たちは言うかも知れない。
もちろん承知している。
何であれ例外は付きものだ。

かつて、「名場面を刻め」でも書いた。

言葉が基本になる。
言葉に置き換えようのない何事かであっても、それを伝えるのに言葉が役に立つ。

世界は外側だけでなく、内側にもある。
その世界が、本を読むことで、肥沃となり稠密さを増す。
精神的な富み、すなわち、深みや厚みがどんどん増してゆく。
豊かになり放題だ。
それに、それ自体が楽しい。

君たちが本の虫になったので、本屋がますます楽しい場所になってきた。
自分が読む本だけでなく君らが読む本にも触手が動く。

村の長老は、若き本読みの君たちと喧々諤々する日が今から楽しみでならない。
喉が鳴る。
最初はビールだろう。

本には出し惜しみをしない。
いつかプラスに作用する。
君たちの内面で芽を出し生い茂りやがて花咲き誇る庭園が生まれる。
お金に換えられない。

本当のおしゃれ人は、背広の裏地に意匠を施すという。
しかしそれでは的外れだ。
内面に凝ることの方が「粋」である。

ボロは着てても心は錦。
内面が充実していれば外見取り繕うことも大言壮語する必要もなくなるという意味である。
自信に満ちていれば何も誇示する必要がない。

本読みに疲れたら映画に行こう。
幸い、ガーデンズが近い。
TSUTAYAも近い。
娯楽であっても、映画は作品と呼ぶに値する水準を保っている。
読書に準ずるものがある。

無色透明な眼前の世界に意味としての色を配する。
その絵具が盛りだくさん取り揃う。
人間ドラマの主要な構造について学び、多種多様なイメージのアーカイブをいくつも作る。

数々のインプットが揉まれ揉まれて、さあどのようなアウトプットがお出ましか、少しザワザワ騒々しいが二軒目は馴染の大衆酒場、そこでじっくり続きを聞こう。