阿倍野辺りを歩くと必ず祖母のことを思い出す。
今で言えば流通業のカテゴリーに括られるのだろうか、市内の卸問屋で仕入れた品々をどさっり背負って南河内方面へ行商に出ることを生業にしていた。
天王寺までバスでやってきて、そこから近鉄大阪線で大阪の奥深く南へと向かう。
荷を降ろしバス停に一人腰掛ける祖母の姿が眼前に現れるかのようだ。
長男がさくら夙川の友人を家に招き、家内が淹れたミルクティーをゴクリ飲み干し章夫が持ってきてくれたカステラを二人で根こそぎ食べる。
これで章夫とさくら夙川の友人との間に接点ができたことになる。
家内はその友人の母に電話し、ここでも接点が生まれる。
左右ともに名門女子校に子が通う隣家であるがその一方の女子が家内を訪ねて家に上がってくる。
長男は慌ててグンゼの肌着の上からシャツをまとう。
家内が夕飯を振る舞う。
我が家の男子諸君の食べっぷりが巨大シャチだとすれば、まるでちゅんちゅんついばむ雀である。
社交的なさくら夙川の友人と長男のツートップが接着剤として有効に機能し友人の輪が数々広がって行く。
まるで、活劇の剣士が一人一人舞台に登場するように、魅力的な面々が日に日に増えて行く。
天橋立のジョーが現れ、札幌のタケシに続き、渡米前は芦屋ラグビー在籍だったというジロー、、、名前はテキトーにつけただけだが、そんなように主要な人物が物語の序盤に次々と顔を出す。
これから長くとても長い期間に渡って交差し様々な役柄を果たしてゆくのだろう。
この日曜には沿線の友人らが家に来るという。
私は仕事で顔出せないが家内がちょちょいのちょいと手料理振る舞うことだろう。
長男が電車通学するようになり、二男が塾で居残りするようになり、家内の作る料理の凄みが増している。
子らの体調を思い、必ず幾種類かのスープが用意され、子らの好物に添えて栄養バランスを考慮した野菜料理が必ず附随し、果物があって更にとてもスイートなデザートまでついてくる。
私はそのうちのいくつかのおこぼれにあずかる。
それぞれ食事を済ませ、風呂で校歌やら流行歌やら熱唱して人心地つき、夜、各自の部屋で机に向かって課題に取り組む。
朝は目覚ましが鳴るやいなや勢い良く飛び起きる。
君たちの地に足ついた毎日の様子を見て、目を細め喜ぶ祖母の柔和な表情が目に浮かぶようだ。
小遣い上げようと草葉の陰からよっこらしょと這い出して、再び重い荷背負って遠路乗り継ぎ行商に出かけかねない。
君たちに触れることさえかなわないけれど、生きていれば間違いなく誰よりも君たちを可愛がり紛うことなき完璧な味方であっただろう。
行商に赴く幾つかの場面しか記憶になく、単なるワンワードで語ってしまいそうになるけれど、祖母がくぐり抜けた日常は常に困難を乗り越えるような奮闘の連続であったに違いない。
そして、それは大昔のことではなく、ついこの間のことであった。
君たちがいま耳にする昭和の曲が町に流れる頃は現役バリバリ、歳老いた平成の頃でさえ頑丈な足腰の限界まで仕事をやめることはなかった。
一片であってもその面影が君たちに伝わることを願う。
縦の系譜にはそのような面影が不可欠だ。
祖母が君たちを見ている。
祖母の心意気が君たちのなかに脈打っていることを思い、心して受け止めることである。
祖母は名家の子女でも武家の娘でも何でもなく、由緒正しい何事かをかざす材料はひとつもない。
日々粉骨砕身した祖母の実質こそが、我々が胸張って誇るべきものである。
そして、これから出会う様々な友人達も、違えば違う程にそのような誇るべき実質を背景にし、その系譜を引き継いでいる者たちである。
それを弁え最大限の尊重を持って接しなければならない。
どこか似ている者同士が吸い寄せられるのが世の常である。
集まる、となれば、必ずそのようなところが共通しているのである。
アホでチャラチャラした者はそのような者どうしでかたまるし、ちびっ子なりに剣士の卵は剣士の卵同士で集結するのだ。
今となっては、祖母の荷を後ろから支えてあげることはできない。
しかし、見ることも触れることもできないけれど、そのようである君たちの姿を思えばこそ、重い荷に耐え、頑丈な足腰に更に力をみなぎらせていた祖母であったに違いない。
そして、どこか遠いところでいまもなおそのようである祖母がいれば、君たちの存在をかすか感じ取り、その分その荷はきっと軽くなるに違いないのである。