KORANIKATARU

子らに語る時々日記

全然ファニーじゃないが重要な話であった


数々の名店が出店し、食べ歩きの祭典として名高い兵庫県ふれあいフェスティバルが今年は尼崎スポーツの森で開催された。
日曜午後、見事なまでに凄まじい子らの食いっぷりについて情報が逐次iPhone通じて入ってくる。
ラーメンにバーガー、うどん、焼きそば、コロッケ、秋の屋外で食すに絶好となる名店の自信作についての詳細と費やした金員の嵩に目を見張りつつ、私はと言えば事務所近くの松屋牛めし380円を食べるのであった。

そして夜は寿司。
子らと合流し寺田町のや台ずしへ向かう。
味も悪くないし値段もリーズナブル。
シャチなみに食う子を伴うのに相応しい。

彼らの食う容量だといちいち個数で頼んでも追いつかない。
次回からは本マグロ2折り、ヒラメとタイ合わせて1折りなど折詰数でどっさりまとめることとしよう。


大阪環状線に乗っての帰途、話題も尽き先日観た映画について子に話す。
ファニーというのは面白いという意味だが、全然面白くない「ファニーゲーム」という映画を観たのだよ、と話し始めた。
それ、本当にあった話?と子は聞くが、本当にあった話の方が遥かに怖いものであると知ることができる映画である。

湖の保養地に家族が向かう。
両親と少年と犬。
車内にはクラシックが流れ休暇を満喫する雰囲気に満ちている。

凄惨な暴力の時系列の中に入り込んでいることを彼らは想像できるはずもない。

別荘で食事の支度する妻のところへ、隣人からの使いだと太めの男子が訪ねてくる。
卵を4つもらえないかと言う。
機嫌良く応じる妻であったが、太め男子がそれを落とし、再度あげた4つも落とし、台所にあった携帯電話をも「誤って」水場に落とす。

ここまでくると笑ってられない。
もう帰ってくれと妻が不機嫌となったところに、細めの男子が現れる。
何を怒っているのですか、と妻に言う。

男子らは妻の態度が不快だと逆に食って掛かる。
戻ってきた夫が仲裁に入ろうとするが、男子らの因縁はエスカレートしていく。


「そもそも」を辿れば、どう考えても男子らの言い分が成り立つはずもないのだが、「枝葉末節」の議論に持ち込み相手の言葉を塞いでいく。
自らの不純な動機は棚に上げ瑣末なことで揚げ足取り、まるで相手に非があるかのように強弁し押し通すやり口は巷間よく取沙汰される反社会勢力のやり口と全く同じである。

男子らの理屈が常軌を逸しはじめ、夫は思わず細め男子の頬をはたく。

男子らの思う壷となった。
手を出したな、と玄関先にあったゴルフクラブで細め男子が夫の膝を叩き割る。

犬が細め男子に既に殺されていることをこの時点で家族は知らない。


家族は監禁され、男子らに賭けを提案される。
12時間以内に、殺されるか、助かるか、どっちだろう。
助かる、と賭けることができるような状況ではない。
殺す、と宣告されたようなものだ。

この状況の恐怖感は言葉にしようがない。
身が竦み気分が悪くなるばかりである。

映画の冒頭、隣家のご主人が細め男子を伴い挨拶に来るシーンがあったが、既に隣家は家族揃って囚われの身となっていたのであり、もはや殺されたのであろうとこの時点で察することができるので更に恐怖が増してくる。

暴力に制圧された息苦しさのなか、いたぶられ方も殺され方も死ぬ順番も殺害の時間もすべてが薄ら笑い浮かべる男子らの手中にあり、その圧倒的な決定論のなか、せり上がってくるのはだただた原始的な恐怖の念だけとなる。

ただただ苦しい。


通常の映画のような大逆転や奇跡は起こらず、まず最初に少年が銃殺される。
そこで男子らは一旦引き上げ、夫妻が無力に打ちひしがれる時間が続き、意を決し助けを求めるため妻が林道を逃げる。
向こうからヘッドライトの光が見える。
妻は助けを求める。
クルマに乗っていたのは、その男子らであった。

「賭け」なのであるから、あなた方にも助かるチャンスを与える、それで一旦退散したのだと男子らは痛快そうに笑って言う。

夫はゴルフクラブで散々殴打されナイフでいたぶられ、そして銃で殺される。
朝となり、妻はボートに乗せられる。
両手両足を縛られ、口はガムテープで何重にも巻かれている。

妻を間に座らせ船縁に腰掛け男子らは愉快そうに会話する。
細め男子が太め男子に時間を聞く。
12時間経過までに後1時間が残されていたが、もうかったるい、チャオと細め男子が妻を軽く押して湖へと突き落とす。
両手両足縛られ口も塞がれ、一体どれほどの苦しみであろうと観る側が驚愕するなか、男子らは腹が減ったと笑い合う。


暴力の詳細や具体が描写される訳ではないけれど、状況の切迫と恐怖が苦しい程に喚起される。
観る側は暴力の本質と正面から向き合う二時間を過ごす事になる。

そして、この作品が卓越しているのは、単なる一つの物語として話を提示しそれで事足れりとするのではなく、随所でこれが虚構であると示唆する場面を盛り込むことで、ありふれた虚構の陳腐さ、ご都合主義を皮肉り、翻って、虚構を凌駕する現実の暴力の身も蓋もない赤裸裸さに思いが向くよう想起させる点にある。

ラストシーン、今度は細め男子が、卵をもらいに対岸の家を訪ねる。
卵を待つ間、彼はカメラ目線で微笑むのであった。

軽く語られ数量として日々消費される死、また、娯楽の題材として描かれる死といったものの背景にある、人類の宿痾とも言える暴力について我々は厳粛に捉え直すよう促される。


子に話すには早過ぎたかもしれない。
いくら酔っていても、話題が尽きても、楽しい夕食の後では避けるべき内容であっただろうか。
他所の子に話せば苦情が飛んでくるに違いない。

遠からずいずれエッチな話もしなければならないであろうし、暴力や死についても話さねばならない。
その題材としてこれほど格好の映画はない。

様子窺うと、子は関心持ったようだ。
そんな映画、何のために誰が観るん、と言う。
つかみは、OK、というところだろう。