KORANIKATARU

子らに語る時々日記

夫婦という存在の不思議

じめじめした大阪の夏が本格化しつつある。そう予感させるほどやたらと湿っぽい昼日中、京阪電車に乗り換える際ふと本屋に立ち寄り、西部邁の「生と死、その非凡なる平凡」を買った。

帯にあった「妻を看取るまで」という語に目が止まり、手が伸びたのであった。

時間に余裕があったので各駅電車に乗って香里園に向かう。
座席に腰掛け本をパラパラとめくる。

「お前が好きであった、お前がいてくれて有り難かった、子供たちのことは俺が責任を持つので心配するな、俺もじきに逝くから寂しがるな」

死地に赴く妻に対してできることは、そんな紋切り型な言葉をかけることに限られると著者が記す箇所がありそこで一気に本の世界に引き込まれた。

妻の臨終に際して「有り難う、ありがとう、アリガトウ」と涙を拭わぬまま繰り返したという箇所に至っては、感情が揺さぶられ日中の公共の場であるにも関わらず、私は涙を必死に抑えねばならなかった。

京阪電車の車内、著者の先立った妻についての記述を追いつつ、私自身の家内について思い巡らせる時間を過ごすことになる。

思えば不思議な縁である。
元はといえば他人であった。
それがいま、当たり前のように日常を共有して一緒に過ごしている。
考えれば考えるほど、謎めいている。

連れ合いとなって幾年月。
その年月を、その年月分押し寄せてきた数々の場面を、連れ立って過ごしてきた。

ともに過ごしてきたはるかな軌跡を思えば、ただただ不思議で気が遠くなる。
とても人知の範疇の話だとは思えない。

そして、この先もこれまで同様、何気ない毎日の仕合せを当たり前のように享受する時間が流れ続ける、そう漠然と信じている。

しかし、いつか節目が訪れる。
本書を読んで知らされた。
というより、知っているはずのことに目を向けさせられた。

どのような形でその時が到来するのか、いまの時点では皆目見当もつかない。
分からないが、やってくる。

順番として私が先であることを強く望みたいが、万一後先となった場合、そのときの沈黙に私は果たして耐え得るのであろうか。
無理だとしか思えない。

生があって死が訪れる、それが自然であり、つべこべ言っても仕方がない。
誰もがその生をいつかは終えることになる。
それを回避できた者はなく、その扉の向こう側から戻ってきた者もいない。

だから、死を忌避的に思うのではなく、死によって生が完成に至る、そのような一つの成就なのだと少しは肯定的に捉え、心を備えておくべきなのであろう。

しかし、そうは言っても、どう言ったところで、その人が還ってこない、もう会えない、となればただただ寂しく、ただただ悲しい。

絶句するばかりの悲哀を、例えば諦観といった風にでも別様に捉えるような芸当はできそうにない。

今、生きてともにある奇跡のような時間を大事にし心から感謝したい、そのような気持ちが湧く一方で、いつか、受け止めようもないことがやってくるのかもしれない、との不安が影のようにまとわりついてくる。
遠い先に潜んでいるのかもしれないそのような出来事についてはただただ押し黙るしかない。

順番は私が先でありますように、そう祈るだけである。

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