1
手羽先が焼きあがるまでの間、枝豆をつまみにしてビールを飲む。
枝豆を大好物にするアーティストと言えば、シンディ・ローパーであっただろうか。
新幹線に乗ってビール飲んで枝豆を食べ続けるシンディ・ローパーの喜色満面を思い浮かべる。
おいしさが増す。
今夜も長男の帰りは遅い。
ラグビーやらスーパー講座やらで忙しくまるで暇がない。
二男と横並び、枝豆を競争するみたいに食べ続ける。
夏休みの予定を見ると、部活の練習で連日埋まっている。
毎回夕方までたっぷり練習するようだ。
高校の先輩が優しく親切。
二男にとってはそれが入部の決め手だった。
星光随一の名クラブであるから父としては喜ばしい選択だ。
誰もがする競技より、ちょっとはマイナーな方が面白い。
のんべんだらりと過ごす夏休みなど夢のまた夢。
早朝にしっかり勉強に取り組み日中は部活でみっちりカラダを鍛える。
ママは張り切っておいしいものをたくさん作ってくれるだろう。
そして、充実感に満たされて夜を迎え、映画を見るなり本を読むなりして自由な時間を過ごせばいい。
アクセントとして学校の黒姫合宿と家族旅行がそこに差し挟まる。
今年の黒姫合宿で中一が登る山は飯縄山。
信州の山はいい。
野鳥や草花、珠玉の自然に直に触れることができる。
富士山に登るありきたりよりはるかに趣きあるだろう。
信州の山に毎年登る学校なんて関西では星光くらいではないだろうか。
2
手羽先を分け合いつつ、「カーラの結婚宣言」について二男に話す。
いい映画を見れば、伝えずにはおられない。
知的障害負う若い男女が結婚にこぎつける。
その過程は、涙無くしてみられない。
我々の心に潜む、上からの目線が炙りだされる。
私達は驕慢を正さなければならない。
そして、誰かの幸福を応援し、祝福する。
そのような心がどれほど大切なことであるのかこの映画で学ぶことができる。
是非とも見て欲しいとDVDを二男に渡す。
子らには良きものを与えたい。
ずっと一貫してそのように考え接してきた。
家内も同じ。
「小さいときから絵本を読み聞かせる」、それが子の知育に効果的だと世間では常識のようになっているが、我が家は、そのようなテクニカルな考えとは無縁であった。
愛情の表出として、お腹に宿ったときから豆太やら豆吉やらと命名し、いつだってお腹の息子に家内は話しかけていた。
その延長で幼い頃も、絵本を題材にするにせよ、読み聞かせといった一方向的な行為ではなく、話しかけるというコミュニケーションを図っていたように思う。
バブーとしか言わない相手に大真面目に語りかけ、返ってくるバブーの意味を汲み取って対話していたのである。
子はいずれも男子。
カラダを鍛えなければならない。
家内は当然のようにそう考え、幼子を自転車の前と後ろに乗せプール教室に通い、少し大きくなってからはプールに加えてフットサルを習わせ、そして、芦屋ラグビーに通わせた。
当たり前のように、食事を作り、送り迎えをし、世話役をこなし、他の母らと交流した。
野山にも触れさせようとカブスカウトに入団させ、昆虫に興味を示せば迷うことなく伊丹昆虫館の子供会員に登録し虫取りのアクティビティに積極的に参加させた。
奈良でカブトムシ採集の合宿があったときは、家内もその泊まり込みに同行し一緒に虫取りに励んだ。
私は仕事に明け暮れ、ほとんどすべてを家内に任せっきりであった。
アサギマダラ採集の山歩きに付き添った程度の協力しかしていない。
家内については、それだけではなかった。
世界の昆虫が難波高島屋に集結したときには、クルマで子を運び連れて行ったし、星の名を知る男子になって欲しいと、催しがある度、子を連れ科学館へと頻繁に足を運んだ。
勉強など二の次三の次であった。
周囲と同様、算盤と公文に通わせた程度であった。
小4からは本格的な塾に入れたが、勉強についてはボチボチで十分だった。
成績が上がり、見込みあると判断した段階で徐々に勉強に比重を移し、小6では徹底的に勉強に集中させた。
屈することなく子らは真っ向渡り合った。
3
勉強に対する熱意などについて、長男は学校の友人から良き影響を受けている。
二男も同様。
親は特に何も言わない。
親の背は勝手に見ているかもしれない。
友人らが真剣に勉強に取り組んでいる。
好作用をそこから受け、様々な友人を参照しつつ、自己のスタイルを形成していっているように見える。
その友人らは、各自の親を起点とした何らかのスタイルを継承している。
それらが子を通じ洗練され、学校という場で、集大成のようなものへと昇華していく。
そこに価値がある。
大学へ行くことだけに着眼するなら、今や、東大と医学部を除いて、易化が甚だしく、何もがっつく必要はない。
我々のときは、東大と並び立つ京大であり、早慶もそこそこの難関であった。
今や見る影もないほど、京大は東大に引き離され、早慶は関東ローカルなありふれた私学になりつつある。
他は推して知るべし。
どの大学が上だ下だといった水掛論はますます不毛になって、そんな馬鹿話にうつつ抜かせば心の空虚を見透かされかねない。
一定の学力さえ示せば、「何に取り組む者」であり「どのような成果を生み出す者」であるのかだけが問われるだけの単純明快な話となる。
言い換えれば、誰の幸福に貢献する者であり、どの程度の幸福を生み出すことができるのか、それが人としての自尊の源泉となり、職業者としての格を体現することになる。
勘違いしてはならないが、大学のハードルが下がったところで、そこを経た後の職業者としての競争はなくならず、そこには当然、格差が生まれる。
働かず、一攫千金などといったこともない。
世には、まるで宝くじに当たることを前提にしているとしか思えないような、太平楽気取りで好きなことして個性を磨けばいつか大当たりするという無思考に浸る人もあるが、待てど暮らせど「当たり」が訪れることはない。
そう考え、小さな努力を日々重ね、ひとかどの能力を保ち続けるような地道な在り方を追求すべきだろう。
能力を欠いた場合、心身疲弊する労役を強いられ収入にも恵まれず将来の展望もない、まさに窮地に置かれ続けるような境遇を余儀なくされることがあり得るからである。
そうなれば、人生自体が苦境となる。
どのような仕事に就くにせよ、裁量が発揮でき敬意を集められる職業者であって欲しいと望むのが親心というものであろう。
だからこその中学受験であった。
いい大学に行ってほしい、そんな一面的なことを考えて受験に臨ませた訳ではない。
そこまでおめでたい親ではない。
将来に渡って勉強は大事なものであり続け欠かせないものとなる。
その勉強に、物心つく育ちの大成長期に、真正面から徹底的に取り組む。
勉強についての習慣と方法論が自身のうちに萌芽し、勉強に向き合う呼吸感のようなものが養われる。
それはかけがえのない武器であり、資産となる。
のびのびと好きなことして個性を涵養したのだよという在り方に、その練磨が屈する訳がない。
人生が二回あるなら、試して比べればいいが、どうやら一回こっきり。
まことしやかな絵空事に耳傾けている場合ではない。
太平楽が世を司ることなどあり得ないのである。
そして、もちろん勉強など、練磨を日常化させるための導入部であり、練磨のうちの一つに過ぎない。
基礎となる足腰は十分に鍛えた。
舞台は次なる切磋琢磨の段階に進んでいる。
4
最終的には、良き職業者であることに至ればいいのであるから、中学自体も別段どこかに限定されるべき話ではない。
知的な成長の促進を重視するという選択をした場合には、中学受験に大きな意味が生じうるが、もちろん中学受験を経ずとも知的な成長は果たしうるので、人それぞれの選択の話であって、どっちがいいなど口を出し合うようなことではない。
中学受験する場合にしても、どこかでなければならない、と塾の講師は刷り込むが、親は視野を常に広角で保っておくべきだろう。
例えば、灘や甲陽と連呼する講師があったとして、酔心する子の一方で、果たしてその講師は職業者としてどうなのだ、真の狙いは何なのだという冷静な見方が親にはできなければならない。
親以上に子のことを考える塾講師など世には存在しない、という当たり前を心得ておくに越したことはない。
あくまで最高を目指すという在り方もあるでろうし、落ちるというリスクを最小化し余力残し二番手、三番手で手を打つという選択もあり得る。
どちらが合理的かは、ケースバイケース、人生いろいろ人それぞれということである。
だから、例えば、灘は難しすぎ、甲陽の入試には骨があり過ぎると判断すれば、塾の先生が何と言おうが、星光と西大和の組み合わせで堂々と受ければそれがベストな選択となり得るのである。オススメだ。
塾の先生は勿体ないと言うかも知れず、子供本人の自尊心は傷つくかもしれないが、そもそもそのような自尊心こそ虚妄ではないかと、親は一段上から、教え諭すのであっていい。
要は、目的地にたどり着く列車なら何でもいいのであって、まずはどれかに乗り込むことであり、後のことは後で考えればいいのである。
そして、その後のことの方がはるかに大事であり、それに比べれば学校選定など取るに足りないことだとさえ言っても過言ではないだろう。