日曜の朝5時。
二男が起き出しスケボーを抱え武庫川へと駆け出して行った。
テイラー・スウィフトの弾む歌声を耳に薄明の河川敷を疾走する二男の姿が浮かんで、わたしの寝床にも一陣の涼風が駆け抜けた。
ほどなくして今度は長男が武庫川に向かった。
ランニングの後かつて属したラグビーチームの練習に参加するという。
旺盛な活気をほとばしらせる二人に感化され、わたしはジムへと向かった。
男子それぞれ朝一番のアクティビティを終え引き続いて二男は塾、長男はジムへと向かい、わたしは家内と買物に出かけた。
土曜の夜に長男が帰省し滞在は僅か数日。
であっても、息子に美味しいものをたくさん作って食べさせたいし、東京にも持ち帰らせたい。
そう思う家内にとって、食材調達がここ数日の最重要課題となるのは自然なことだった。
ガーデンズで肉や魚を物色しつつ星光懇親会の場でふと耳にした話を家内にしてみる。
あるOB。
娘を幼稚園に通わせた。
地元ではそこそこの名門であったはずが、その幼稚園では無分別極まりないほどのマウンティング合戦が繰り広げられていた。
幼い子らだけでなくその母までマウンティングのリングに上ってくるから先が思いやられた。
目に見えるパッケージの部分に気を遣うのは人として当然であるし、そこに個性の発露が生じることにも賛同するが、それが自尊感情の強い主張として顕示されると気が萎える。
持ち物や服のブランド、乗っているベンツの型式、夏休みの旅行先や親の職業、そんなものを互い争うみたいに自慢し合い反応を窺い、そんなもので人を上下に見るなど反教育もここに極まれりといった話ではないか。
そのOBは思った。
つまりここには大事な何かが欠如している。
教育上、かわいい娘をそんな力学のなか置くわけにはいかない。
それで幼稚園や小学校、中学校について調べに調べた。
学校自体に見識があって、親も品性を保つ。
そんな視点でみたとき、自ずと選択肢は限られた。
共通項として、ある程度以上の学力は必須であった。
誇示や虚栄は無知と無為を土壌とし生い茂り、慎みや謙譲は知性と研鑽を必須の要素として育まれる。
だから当然と言えば当然の話だった。
そんな話をしながらわたしがカートを押し、家内が果物や野菜の品定めをする。
二つ目のカゴが満杯になろうとしていた。
家内が言う。
子が男だからかもしれない。
母らとの交流を通じマウンティングといった類のものを感じる機会はまったくなかった。
火曜日も星光ママらと集まって食事をする。
ギャルといったタイプや年齢層は皆無。
モノや何かで自らを語る人など見たことがない。
第一モノなど誰でも持っているから、それが自慢になることはないし、見せびらかしたりすれば浮きに浮く。
家内の話は、わたしの実感にも合致した。
なるほど、西大和のときもそうだった。
そんな母など見たことがない。
いたとしても少数派すぎて、気づかなかった。
息子についてもそうだろう。
男同士、張り合うとすれば頭がいいかケンカが強いか何か特技はあるかに絞られる。
もしモノで済むならどれだけ楽なことだろう。
つまりそこに大した価値は宿らない。
今月中旬、二男は近畿大会出場を賭け二週に渡って府大会に臨む。
今回から現高二が最上級生となるから彼らにとって試金石となる大会と言える。
士気があがって結束も強固。
そこに何かモノがしゃしゃり出る場面は一切ない。
一方長男は明日友人らと連れ立って母校西大和を訪問する。
6年過ごした学校は、山あり谷あり何でもありのハードさであったがその分、彼にとって最も愛着のある場所として心のなか光を放ち続けている。
だから卒業しても光に導かれるようにして、この先もずっと学校を訪れることになるだろう。
無論そこにもモノの出る幕などありはしない。