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月曜早朝、クルマを走らせる。
外気温は既に30℃に達している。
武庫川沿いで窓を開けるが、入り込んでくる空気に清涼さはなく、ただただ生暖かい。
ラジオからはスリランカ音楽が流れる。
旅情かき立てられるが向かうは事務所。
あれやこれや案件が頭を駆け巡る。
かつて読んだ平野啓一郎氏の「空白を満たしなさい」という小説について思い出す。
主人公が自殺する。
携えていたノートには数ページに渡って「いやだ」という言葉が渾身の力で書き刻まれていた。
まるで文面から「いやだ」という怨嗟の声が実体伴って立ち上って響き渡るようであり、戦慄するほどに切ない気持ちとなった記憶がある。
私もかつては勤め人。
楽しかったり、やり甲斐を感じたりポジティブな思いを覚える一面もあったにせよ、いやだと思う一面があったのも確かなことであった。
何もそれで死ぬことはないではないかと思いつつも、多くの人が主人公に感情移入することができるのではないだろうか。
勤め人の記憶は今も私の内面奥深く下層に眠る。
その残滓が月曜になると疼くことがある。
悪い夢を振り払うように、私はいま自営業であると自らに言い聞かせる。
一から十まで指図され管理されるような立場ではない。
その気になれば、今から引き返し、仕事をサボることもできる。
若手に後は任せて、昼からプールで泳ぐこともできる。
しかし、もちろんプールに向かうことはない。
平日の昼に泳ぐ罪悪感に耐える根性など持ち合わせていない。
そうできる、と思えるだけで十分。
勤め人をやめてから幾年月、自営業ボケしている疑いは否定できないが、自身の身分を見誤るほどにはおめでたくはない。
世は身分を取り違えた錯誤者に溢れているが、私は正気。
所詮は労働者、額に汗して働いてなんとか糊口を凌ぐ者でしかない。
2
週末から佐藤優氏の「いま生きる資本論」と「いま生きる階級論」を並走して読み始めた。
内容が重厚なので読みこなすのにもう少し時間を要するが、私達のほぼ全員が労働者であるのだとよおく理解できる。
資本の論理で決せられた、「何とか生活を維持できる程度の賃金」を手に乗せてもらい、競争させられカツカツ生きる。
一個の思いや努力とは無関係な次元のメカニズムに取り仕切られ、それに従属し絞り取られるだけの立場なのである。
だから過剰適応してしまうと、憔悴するし、ウツになるし、挙句には自殺することになる。
システムを客観視して、その奇っ怪を鼻で笑って、強いられる価値を相対化することが自己防衛になる。
木暮太一氏の資本論を巡る一連の著作にも対策が記されていた。
去年の11月27日の日記でも紹介したが「自己内利益」の増大という概念。
工夫次第では、メカニズムによって利益を召し上げられるだけではなく、自己内の利益を増大させることができる。
熟練とスキルの蓄積によって労力あたりの利益は増大するし、メンタルに着目し、心理的負荷を軽減させることができるのであれば、これもまた実質的には利益が増大したのと同じことになる。
これによって、全部は奪われず、利益が手元に残ることになる。
ここまで考えてきて、つまりは、勉強が大事なのだという直感に達する。
昨日の日記と地続きの話となる。
苦痛を軽減させるうえで最も効果的な方法は、それに慣れてしまうこと。
勤労がカラダに内在化するのであれば、資本主義の世知辛い日常だって平気で乗り越えられる。
そして、熟練とスキルの蓄積は、まさに、学習によって為せること。
自らの立つ土台が徐々に高くなっていく。
そうなれば、より上手に、より巧みに、より早く、より簡便にアウトプットできるようになる。
十の労でこなしていたことを、やがて九の労で為せるようになるのであれば、一は丸儲け、となる。
精神的なコストの軽減は、熟練とスキルの蓄積に加えて、選択肢の有無にも関係するだろう。
勤労を余儀なくされるにしても、持ち場を選択できるなら、精神的な負荷の少ない労働と出合える可能性は高くなる。
選択する立場であるためには、能力を有さなければならない。
能力なければ、肉体疲弊し心荒廃するような仕事を充てがわれても、食うためにそれに耐えるしかない。
自己再生が十で済むところ、ストレスが強すぎて回復に十一が必要となれば、一は丸損となってしまう。
そして結局は、勉強という価値観も資本の論理の帰結であるのだと気づくことになる。
しかしどの道、その手の平の上から脱する術はない。
できるだけ幸福に過ごせるよう、その手の平の上、自身にマッチした持ち場を探すことが、できる唯一のこととなる。
そう早くから気付いて手を打つしかないだろう。
さあ、月曜日だ、頑張ろう。