KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ベクトルとして束ねられた同質の世界から最強が生まれる。


月曜なのに歌謡曲のコーナーで流れた「ミニミニガール」については、十分に一服の清涼剤、面白みを感じたが、午後6時半あたりの曲については耳に障って仕方がない。
自宅へと帰還するやすらぎの時刻にそぐわない。
音については合わない場合、これはもう加工された騒音でしかない。
FMココロからNHKへと退避した。

食事の支度は既にできていた。
前菜はアボガド。
コストコのアボガドはなかなかいける。
パプリカ添えて、味のりとワサビをちょっと乗せて食べる。

引き続いてはスタミナ料理。
ニンニクとニラと豚肉の炒めもの。

二男は炊き込みご飯とともに、私はビールとともに口に運ぶ。
今日の弁当はハンバーグだったという。
相当に美味しかったようだ。
残ってないの、と二男が夕飯にもそれを乞う。

もうない、と家内は言うが、あのもしもし、私は一個も食べていない。

物理オリンピックで、星光の高2が銀メダルを獲得した。
これで星光のメダル獲得は3年連続だ。
金メダルは東大寺の高1らしいね。

そのニュースについて二男は既に知っていた。
彼は言う。
インドでの世界大会っていうのが凄い。

インドに向け旅立つ日本の若き精鋭5人組の姿を二男とともに想像してみる。
宇宙飛行士のような勇姿が浮かぶ。

まぶしい。


天才つながり、DVDをセットし「ビューティフル・マインド」を見る。
ノーベル経済学賞を受けた天才数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた作品だ。
つい先ごろ交通事故で奥さんとともに亡くなったことが報じられたばかりである。

映画の内容は期待外れであった。
ナッシュ均衡について説明される訳でもないし、ナッシュの天才に焦点が当たる訳でもなく、ナッシュの何が凄いのか結局は分からず仕舞いに終わった。

ナッシュが長年苦しめられた統合失調症について、手に汗握るオカルトとも言えるテイストを前面に押し出さざるを得ないところは興行映画の宿命なのだろう。

しかし映画においては、感動するシーンが1つでもあれば十分及第。
心に残る1シーンがあるのであればそこにつながる全てに意味が宿って、時間を割くに足るということになる。

晩年、老いたナッシュのテーブルに他の教授陣が次々と歩み寄り、そのテーブルにそれぞれの万年筆を置いていく。
プリンストン大学においては、それが最大の敬意の表明だというのが映画の設定である。

やきもきしつつナッシュの軌跡を追い、そして観る者はここで、一人の人間の達成の場面に到達するのである。
感動的だ。

学に仕える者にとって万年筆は、自らの知性と自尊の象徴とも言える。
それを献上する訳であるから、最高の称賛以外のなにものでもない。

男であれば最後にはこのように讃えられたい。
フィクションであるにせよ、何か貴重なイメージに出合えることができたように思えた。


万年筆が一つの意味を指し示す。
その場所は、ある種の同質性で括られた世界と見ることができるだろう。

異なる価値観が入り乱れる世界であれば、万年筆など何の用もなさず意味ももたない。
どうせ置くなら、現金置いてくれなきゃピンとこないよ、という感じ方だってあるに違いない。

何らかの突出は、八方に散漫に広がる活性の世界からよりも、ベクトルとして束ねられた同質の世界からこそ生まれる。

前者の場合はすべてが相対的となりかねず、突出を生み出す共通の価値の磁場がない。

競争が突出を産み、競争は同じ価値を背景に持たなければ生まれない。
開けてビックリ玉手箱といった突出も、ベクトル同士の激しい競い合いの結果の産物なのであろう。

多様性をと思考を拡散させるより先に、最強を生むカテゴリーとしての同質性の括り方にまずは焦点を絞ることの方が大事だという気がする。

物理オリンピックのメンバーに、死ぬほど足の早いやつが入っても、全く別物、スイカに塩をかけるほどの効果も望めない。
そのようなことである。


人には限りがある。
何でもかんでも出来るわけではない。
その当たり前を踏まえた上で、誰が何と言おうが、自らが最も喜べる「万年筆」の得られる場を見出し、力を競う。
それができてこそ、男冥利に尽きる人生ということになるのだろう。

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