様々な関係者を交えた酒席の場、たまたま隣り合った方と世間話しつつビールを注ぎ合う。
似通った年代の子を持つ父親同士、話題は互いの子を通わせる学校のことに行き着いた。
成績分布について興味深い話があった。
ベル・カーブのようなひとつながりの分布だと前提してしまうと事を見誤る。
どこの学校であってもその小集団のなか成績の上下差は大きく、なだらかな一山が形成されるのではなく、コブが前後に分断したような二極化の構造が潜在している。
子が置かれる実情を正確に汲むにはそのような切り口で見るべきであろう。
前と後とでは同じコブでも景色が全く異なる。
多く前者については学校は好ましいところであり、後者にとっては厭わしく疎ましい場所となる。
前のコブに陣取る子どもたちはそこで結束し、相乗効果で更に前向き積極的に邁進し、学校を良き踏み台として飛躍的な成長を遂げていく。
一方、後のコブに居合わせてしまった者は、前者の勢いに気圧されしょぼくれ意気までくじけ、下手すれば、喜んで合格したのも束の間、学校を忌み嫌って通わなくなる者があり、最悪の場合には一年経たずして学校をやめる者まで現れるということになる。
どこの学校も例外ではなく、生身の人間に関わることであるから、不適応という結果を完全に回避することなどできやしない。
誰が悪いという訳でもない。
勢い良く走りだす集団のなかに置かれ、何をどう思おうが、救いの手を差しのべられようが「身体が動かなくなってしまった」者はもはや動けない。
朝は起きられず、どれだけ睡魔に抗おうが授業中の居眠りはやめられず、課題を前にしても手は動かず、試験になっても受験時代のような気力は一向に蘇ってこない。
そして、骨の髄まで序列意識を植え付けられた集団である。
上位と下位はクラスで隔てられ、対応の手厚さで隔てられ、寄せられる期待の度合いで隔てられてきた。
塾という品質選別工場のような場に長く身を置けば置くほど、そのような意識が強化されている。
中学に入ったからといってたちまちそれが薄らぐわけもない。
階層の上にあればそのいびつに気付くことはなかったかもしれないが、いざ下に置かれれば、蔑んだような視線が突き刺さってくるのが痛いほど分かる。
落伍者キャラを楽しげに演ずるもののかつて上位であったとすればなおさらのこと実のところは耐え難い。
そのような表層的価値が強固であればあるほど、在校中だけでなく、入った大学名によっては卒業後まで肩身が狭いといったことも起こり得る。
ここには立つ瀬がない、そう見通せたときの落胆は相当なものであろう。
学校をやめる選択について先ほどは「最悪の場合には」と書いたが一概に言えることではなく、本人にとってはむしろ僥倖、憑物落ち窮地脱するのであるから、ひとえにめでたいといったことであるかもしれない。
どちらのコブに属することになるのか。
二つに一つ。
前か後かで、親としてするアプローチは全く異なったものとなる。
前に属すのであれば彼らが相互に作り出す上昇気流に任せればいいのであろう。
後であれば、叱咤激励以前の話。
見栄や体裁など脇に置き、虚心になって子と向き合うようなことが必要となるのであろうか。
遠く旅するのであれば自らの馬を労らねばならない。
フランスにそんなことわざがあったように思う。
どんな場合であっても、余力はとっておいた方がいい。
これは所を問わず誰にでもあてはまる真理と言えるのだろう。
道のりはまだまだ果てしない。
余裕しゃくしゃくでいきたいものだ。